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熊野猿:和歌山県田辺市本宮町高山

てつの投稿。

猿まわし

Saruhiki Motonobu Rakuchu-Rakugai.jpg
洛中洛外図屏風に描かれた猿曳(さるひき)と猿
狩野元信? - http://www.rekihaku.ac.jp/gallery/rakutyuu/theme/index.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

江戸時代の紀伊国の地誌『紀伊続風土記』によると、和歌山県田辺市本宮町高山(旧紀伊国牟婁郡四村荘高山村)では昔から猿まわしが行われ、高山村の猿まわしは熊野猿と呼ばれました。

当村では昔から猿引(さるひき:猿まわし)がある。熊野猿というのはこの村の猿のことであるとのこと。名草郡の貴志村(きしむら:紀伊国名草郡貴志荘、現・和歌山県和歌山市)の猿引は慶長の頃にこの村より移ったのだ。

高山村:紀伊続風土記(現代語訳):紀伊すぽっと

江戸時代、紀伊国に2ヶ所、猿まわし師が住む地域がありました。雑賀郡長田荘の上田井村(こうだいむら:現・和歌山県紀の川市上田井)と名草郡貴志荘の梅原村(現・和歌山県和歌山市梅原)。

そのうち梅原村の猿まわし師の集団は高山村の猿まわし師が慶長(安土桃山時代から江戸時代にかけての1596年から1615年まで)の頃に梅原村に移住したことから始まったと言われます。貴志の猿まわしは貴志の甚兵衛猿と呼ばれました。

『紀伊続風土記』の梅原村の項には次のように書かれています(現代語訳てつ)。

大歳ノ社(おおとしのやしろ)の南に猿舞師九戸あり。貴志の甚兵衛猿といふ。四方に行き猿を舞して観場(かんじょう:多くの人に物品などを見せる所)に供す。国中に猿屋二箇所あり。一は那賀ノ群上田井村にあり。当村の猿舞師慶長ノ頃奥熊野四村ノ荘高山村より移りしといふ。

(訳:大歳ノ社の南に猿舞師の家が九戸ある。貴志の甚兵衛猿という。四方に行って猿を舞わして観場に供する。紀伊国の中に猿まわし師が住む地域が2箇所ある。ひとつは那賀郡上田井村にある。当村の猿舞師は慶長の頃に奥熊野の四村荘高山村より移ったものだという)

高山村から梅原村に移住したのは戦国の動乱のために熊野では猿まわしが生業として成り立たなくなったからかもしれません。

ネットで検索すると、狙引甚兵衛(さるひき-じんべえ)なる人物が。

狙引甚兵衛 さるひき-じんべえ

?-? 江戸時代前期の猿回し
紀伊(きい)海士(あま)郡(和歌山県)の猿回し(猿引)の棟梁(とうりょう)。浅野幸長(あさの-よしなが)が和歌山藩主のとき(1600-13),藩主の命で藩内の猿回しを配下にし,毎年和歌御神事の際には,供奉の列にくわわったという。

狙引甚兵衛(さるひき じんべえ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

ここでは名草郡貴志荘ではなく海士郡とあります。

江戸時代の百科事典『和漢三才図会』巻之四十「寓類 恠類」の「獼猴(さる)」の項には「紀州の岸の甚兵衛が猿引の始め」だとの説も記されています(現代語訳てつ)。

畜之者【紀州岸甚兵衛猿引之始云云】令携扇及鞭爲舞曲容

(訳:猿を畜う者【紀州の岸の甚兵衛が猿引の始めという話である】は扇と鞭を携えて猿に舞曲の形を行わせる)

岸の甚兵衛はおそらくは貴志の甚兵衛で、梅原村の猿まわし師の棟梁の名前なのでしょう。

猿まわしの発祥の地は中国河南省南陽市新野県だといわれ、日本には奈良時代に伝わったとされます。

(てつ)

番外編 No.28

2010.7.19 UP
2022.2.3 更新
2023.12.22 更新
2023.12.25 更新
2023.12.30 更新
2024.1.18 更新

参考文献



和歌山県田辺市本宮町高山

読み方:わかやまけん たなべし ほんぐうちょう たかやま

郵便番号:〒647-1705

田辺市HP

田辺市 - Wikipedia
田辺市(たなべし)は、和歌山県中南部に位置する市。
人口・経済の点で和歌山県第二の都市であり、和歌山県南部の経済・産業の中心地でもある。熊野古道の中辺路ルートと大辺路ルートの分岐点であり、「口熊野」と称される。面積は1000 km2を超え、近畿地方の市では面積が最大である(全国順位は20位)。