古くから女性の参詣を受け入れた聖地、熊野
建徳3年(1372)、熊野と高野山が名草郡大野郷(現海南市)における熊野参詣道の通行税に関して権利争いをしていたときのこと。
高野山側は、高野山が「鎮国安民の道場、高祖神明常住の霊崛(国を鎮め、民を安らかにする道場で、弘法大師が常住している霊妙な場所)」で「上品上生」であるのに対し、熊野は「他国降臨の神体、男女猥雑の瑞垣(他国から降臨した神を祀り、境内には男女が入り乱れている)」で「中品上生」に過ぎないと述べ、高野山の優位性を主張しました。
高野山が女人禁制であったのに対し、熊野は女性の参詣を広く受け入れていたため、たしかに境内には男女が入り乱れていました。この点を高野山側は非難しているわけですが、熊野の側から言えば「男女猥雑の瑞垣」で何が悪い、「男女猥雑の瑞垣」こそが熊野だという自負もあったのではないでしょうか。女性を受け入れているから劣っているというような言い分は熊野の側からしてみれば認められるものではなかったでしょう。
熊野は山岳宗教の中心地のひとつでありながら、女性の参詣を禁じませんでした。禁じないどころか積極的に受け入れていました。これは特筆すべきことで、熊野ほどに女性の参詣を歓迎した社寺は他にありません。
(てつ)
2008.2.19 UP
参考文献
- 小山靖憲『熊野古道』岩波新書