熊野各地に残る弘法大師空海の伝説
全国各地に数多くの伝説を残す弘法大師・空海(774~835)。ここ熊野の地にももちろん多くの伝説が残されています。
育つはずのないものが育つという奇跡
蒔かずの蕎麦(和歌山県田辺市本宮町大瀬)
昔、大瀬(おおぜ)の山上の馬頭観音の傍らにある家のおばあさんのところに弘法大師がやってきて、一晩の宿を所望した。おばあさんは食べさせるものがなかったため、やむを得ず、種にとっていたソバ種3合を臼でひいて食べさせた。大師は感謝して、「そのソバ殻をその辺りに放っておけば自然にソバが生えてくるようになる」とおばあさんに教えた。おばあさんは不思議なことを言う坊さんだと思ったが、言われた通りにしてみるとソバが生えてきたという。それ以後、毎年、種を蒔かなくても、自然にソバが生えてくるようになった。
大瀬の馬頭観音の境内には蕎麦大師が祭られています。
天然痘(本宮町上大野)
上大野の実相寺の近くにオカメというおばあさんが住んでいた。そこへ弘法大師が訪れ、昼食を食べようとしてお茶を所望した。おばあさんにお茶をもらうと、大師は昼食をとった。食事には榊(サカキ)の箸を使ったが、食事が終わると、その箸を地面に突き立て、「これが大きく成長した折には、この村には天然痘が一切ないようにしてやろう」とおばあさんに約束して立ち去った。榊の箸は根付き、成長し、それ以後、村には天然痘がおこらなくなったという。
また、村の東方に天然痘が流行すると、榊の東側の葉に黒い斑点がつき、西方に天然痘が流行すると、榊の西側の葉に黒い斑点ができて、村の人々に代わって天然痘を患ってくれるという。
弘法杉(本宮町静川)
大塔山の麓に「弘法杉」と呼ばれる2本の杉の巨木がある。弘法大師がこの場所で昼食を食べたときに杉の枝を折って箸を作った。食事後にその杉の箸を地面に突き立てたところ、根付いて育ったのがこの2本の杉の巨木である。
1997年の調査によると、林道に立って向かって右側のほうが胸高周囲5.66m、樹高45m。向かって左側のほうが胸高周囲6.10m、樹高43m。 この2本の「弘法杉」は、全国・国有林の巨樹・巨木百選に選ばれています。
樹齢は450年~500年生くらいと推定されています(とすると、弘法大師とは年代が合いませんが)。
成るべきものを成らなくさせる呪術
鳴かないクツワムシ(本宮町桧葉)
昔、弘法大師が桧葉で勉強していたところ、クツワムシが「ガシャガシャ」と鳴いてあまりにやかましい。そこで、大師はクツワムシに「黙っておれ」と言い、それ以後、桧葉ではクツワムシは鳴かなくなったとか。
これは『本宮つれづれ』のまことさんに教えていただいたお話ですが、まことさんによると、本当に全然「ガシャガシャ」という鳴き声を耳にしないそうです。
熊野地方には現在、2種類のクツワムシがいるそうです。普通のクツワムシとタイワンクツワムシです。
タイワンクツワムシは熱帯系の昆虫で、かつては本州では稀な昆虫だったらしいですが、現在は地球温暖化の影響で生息範囲を広め、熊野では全域に生息し、クツワムシと生活圏を奪い合っているようです。
タイワンクツワムシは体長は5~ 7.5cmくらい。体長5cmくらいのクツワムシよりもひとまわり大きくて細長いです。問題の鳴き声ですが、「ガシャガシャ」とは鳴かないで、「グワッ・グワッ・グワッ・ギュルルルルル・・・・・」と鳴きます。
桧葉に生息しているのはこのタイワンクツワムシなのでは。
固まらなくなった餅(和歌山県新宮市熊野川町志古)
弘法大師が志古のある家に来たとき、ちょうどその家ではモチ米を蒸していた。そこで、大師は餅を所望したが、家の者は「これは餅ではなく粥だ」と嘘をついて餅を与えなかった。それ以後、志古では、いくら餅をついても固まらなくなってしまった。それで、餅をつかなくなったという。
エンドウ豆に必ず虫が(和歌山県西牟婁郡上富田町朝来)
朝来(あっそ)では大師にエンドウ豆の喜捨を乞われたが、一粒も与えなかったので、その罰としてエンドウ豆を作ると、サヤに穴もないのに必ず虫が入るようになったという。そのため、エンドウ豆を作らなくなった。
土木技術者としての空海
弘法大師空海。
日本の山岳宗教を中国で学んだ密教により体系化し、真言宗を開いた日本史上最大の宗教家。
空海は、その「空と海」というスケールの大きな名に相応しい、巨大な人物でした。空海には様々な顔があります。
密教の思想家であり、山々を駈ける山岳宗教者であり、「弘法筆を択ばず」ということわざを生んだほどのすぐれた書家であり、当代一流の詩人であり、権力操作に長けた政治家であり・・・
また、日本初の庶民のための総合大学「綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)」を開いたり、土木・建築・鉱業・自然科学・医療と驚くほどの才能を様々な分野で発揮しています。
そうした様々な空海の顔のなかで、とくに庶民に親しまれてきたのが、土木技術者としての空海でしょう。
空海は820年、四国・讃岐の満濃池(香川県仲多度郡満濃町)の修築工事の指揮をしています。
現在の満濃池は周囲二十キロに及ぶ日本最大の溜め池(平安時代にはもっと小さかったと思われますが)。この池が大決壊。朝廷は築池使を派遣して、3年の月日をかけて修築工事を進めさせましたが、うまくいきません。そこで、空海を派遣。空海の指揮のもと、修築工事が再開されると、地元の農民の協力もあって、わずか3ヶ月でその難工事は完成しました。
空海は、この工事で、堤防をアーチ型に設計しました。アーチ型にすると、水圧が分散され、直線のものよりはるかに高い水圧に耐えられるようになるそうです。
また、満水時の放流の際の堤防決壊を防ぐために岩盤をくりぬく工事も行われたといいます。現在でも通用する合理的な工事が、空海によってなされたのです。
池をつくる専門科であるはずの築池使が3年かけてできなかったことを、空海は3ヶ月で行ってしまいました。土木技術者としての空海の実力をまざまざと世に知らしめた修築工事でした。
弘法井戸(和歌山県西牟婁郡上富田町朝来など)
昔、弘法大師が熊野詣の途上、咽が乾き、村びとに水を所望したところ、村びとは遠くまで汲みに行って与えた。それを感謝した大師は「この土地は水に不自由のようだから、水の便をはかってやろう」と祈祷を始めた。すると、乾いた土地から清水が湧き出てきたという。
いわゆる「弘法井戸」の伝説です。
本宮町内にある熊野九十九王子のひとつ、水呑(みずのみ)王子も、弘法大師が地面に杖を突き立てて、清水を沸き出させた場所だそうです。
弘法大師が杖を立てた所に、清水が湧き出てきた。そのような類いの伝説は全国各地にありますが、これら「弘法井戸」の伝説も、この空海の土木技術者としての能力の高さが生み出したものなのだと思われます。
橋杭岩(和歌山県西牟婁郡串本町鬮野川)
また、西牟婁郡の海岸に林立する奇岩群、国の名勝・天然記念物に指定されている橋杭岩にはこんな伝説があります。
弘法大師と天の邪鬼とが一晩で大島まで橋を架ける競争をしたが、負けそうになった天邪鬼が鶏の鳴きまねをして夜が明けたと思わせたため、弘法大師が作業を止め、橋を完成させることなく杭だけで終わったという。
やはりこれも空海の土木技術者としての実力が生み出した伝説のようです。
さて、取りあえず、この辺で、「弘法大師の伝説」の項を終えますが、まだまだたくさんの弘法伝説がこの熊野地方にもあると思われます。熊野と高野山とは熊野古道・小辺路(こへち)で結ばれていますし。
ご投稿
Eさんから弘法伝説に関するメールいただきました。以下Eさんのメールより。
◎ 音無川
弘法大師が奥吉野(十津川あたり?)を歩いていたところ、せせらぎの音があまりにうるさい川があったので水面に石を投げると川が静まり、それ以来その川は音無川と呼ばれるようになったそうな。
◎ 妙法山阿弥陀寺
弘法大師は高野山開創の前年(815年)、那智の地を訪れ、那智の滝で行をし、妙法山の山頂に卒塔婆を立てたといいます。さらに阿弥陀如来像を彫られたとも。
阿弥陀如来像(阿弥陀寺の本尊)は惜しくも1980年代、火災で焼失しましたが平安時代の作と伝えられます。
※ただし、弘法大師が熊野に来たかどうかの史実の真偽はわかりません。熊野年代記などにもその記載がありますが、歴史書によって年代が大きく違うようなのであくまで伝説としてお伝えしておきます。
◎ このほか、和歌山県内の熊野古道には「弘法の井戸」(湯浅町)「弘法の爪書き地蔵」(有田市)などおびただしい数の伝説が残っています。
Eさん、メール、ありがとうございます。
ところで、一番目の音無川の話は本宮町を流れる音無川のことでしょうか。かつては熊野詣と言えば、音無川が連想されるほど名の知られた川だったので、吉野の奥を熊野と考えれば、そうとってもよいように思いますが、それとも、奈良県十津川村あたりに別の音無川があるのでしょうか。わかりません。
(てつ)
2000.9 UP
2002.5.23 更新
2005.4.4 更新
2019.12.4 更新
参考文献
- 近畿民俗学会『近畿民俗叢書 熊野の民俗 和歌山県本宮町』初芝文庫
- くまの文庫2『熊野中辺路 伝説(上)』熊野中辺路刊行会
- 後藤伸『虫たちの熊野』紀伊民報社