もと大梵天王社
神子浜村の産土神で、もともとは大梵天王社(だいぼんてんのうやしろ)と呼ばれていました。
大梵天王とは梵天、古代インドの神ブラフマーを仏教が取り入れたもの。
明治4年に神仏分離して神楽神社と名前を改められました。
明治10年に若宮神社、岩戸別神社を合祀。
鳥居は両部鳥居。
両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)のことでを、両部鳥居は神仏混淆の神社に多く見られます。
境内の由緒書きより。
所在地 | 神子浜下浜田307番地 |
祭神 | 天太玉命 天宇受売命 毘沙門天 火産霊命 妙嚴宮 |
由緒 |
この両末社は元同じ本社末社として神子浜にあったのを明治元年此処の移した。梵天玉と言い岩戸別神社とも言った。社伝では宝亀六年巳卯九月勧請と言ふ。 元文、明和、安永、寛政、文政。万延の年鑑に棟札を伝え、社殿では元文元年辰十一月社殿再建、万延元年御鞘再建、大正十二年二月社殿改築、同十四年九月敷地拡張本殿の位置替、拝殿を新築した。境内四百八十六坪、外に接続する山林五畝十三歩に昭和四十五年五月有志寄贈に依る七畝五歩を加えて壱反弐畝拾八歩となる。 例祭を十一月十五日と定めてゐるを昭和四十五年より十一月二十三日と改め現在に至る。 宝物として大精進御宿帳あり。元禄元年より現在に至る御宿を記している。 |
南方熊楠が度々訪れ、珍種の藻を発見
森の裾には「南方熊楠珍種の藻発見の池跡」の碑が立てられています。
隣に立つ説明板より。
南方熊楠珍種の藻発見の池跡
博物学者南方熊楠は、明治37年田辺を訪れて以来昭和16年に没するまで田辺を終の住処と致しました
神楽神社の境内には、波の浸食によって出来た鬼橋岩があり熊楠はこの地を好み度々訪れていました。
神社の森、着生植物粘菌等一木一草に興味をもちこの森の裾には溜池があり、特にここでは珍種の藻を発見しました。熊楠がこよなく愛した熊野、神社の森、この紀伊山地、高野、熊野、が世界遺産に登録されたのを期に田辺で半生を終えた熊楠が残した偉業を後世に伝えるためかりの地神楽神社境内へ
「南方熊楠珍種の藻発見の池跡」と
「紀伊山地の霊場と参詣道、世界遺産登録記念」が表裏一体となった、この遺産登録された記念すべき年に建立する。平成16年12月20日
以下、南方熊楠の書簡より(私の口語訳)。
西牟婁郡湊村の神楽神社(かぐらのやしろ)の辺りの小溜水から得たのは、従来聞いたことのない珍種で、蝸牛(かたつむり)のごとく平面に螺旋する。 (「神社合祀に関する意見」口語訳20)
当地に近い神子浜(みこのはま)という所に神楽神社というのがある。小生は土地の伝承を考えて、必ずこの近くの土地に古塚があるはずだと言った。2年前にこれを聞いてその土地を買収し、夜分ひそかに発掘してインベ11を得て、私蔵する人がある。それから小生は、このようなことを話すのはかえって科学上有益な古蹟の滅却を早めるものと思い、そんなことは一向に言わないでいる。 (「南方二書」口語訳24)
いま池はありませんが、ここに熊楠が度々訪れたのかと思うと感慨深いものがあります。
神楽神社境内にはかつては鬼橋岩(ききょうがん)とよばれる、岩山の一部が波の浸食によってくり抜かれてできた岩の橋があり、国の天然記念物に指定されていましたが、崩壊の危険のため昭和58年に撤去され、昭和60年に天然記念物の指定解除。
(てつ)
2010.6.27 UP
2023.7.21 更新
参考文献
- 中沢新一 責任編集・解題『南方熊楠コレクション〈第5巻〉森の思想』河出文庫
神楽神社へ
アクセス:JR紀伊田辺駅から明光バス「文里経由白浜行き」で約8分、神子浜バス停下車、徒歩1分。
駐車場:駐車場あり