護良親王の幼くして亡くなった若宮を祀る
「骨置神社」という、ちょっと変わった名前の神社。
その由緒は、以下の通り。
骨置神社
元弘元年九月笠置陥り、護良親王は難を熊野に避け北山に至る。
この地の豪族竹原八郎宗親、戸野兵衛良忠等直ちに親王を迎え、四方の要害を固め、竹原の地を根拠として画策すること半年、元弘二年六月命旨を奉じ伊勢方面に進出、六波羅を驚かす。諸国の武将これを聞き、蜂起して遂に北条氏は亡び建武の中興が成った。
讃良親王、竹原八郎の娘をお側に召され、その間に若宮を出生されたが幼くしてなくなる。土地の人尊びて骨置神社としてお祈りする。
「こうずじんじゃ」の「こうず」とは公頭ということのようです。
周囲は杉林。
北山村竹原にも竹原八郎が住んでいたという「上の坊屋敷」の跡があり、その他にも、竹原八郎の建立と伝わる東光寺があります。
北山側の川向いの三重県熊野市神川町花知には竹原八郎の屋敷跡が神社になった花知神社があります。
御祭神は大塔宮護良親王とその子
2015年6月にお参りした折、案内板が新しくなっていたので追記。
骨置神社
祭神は、護良親王・小大塔ノ宮。杉林に囲まれた社は神明造で、神社の右奥には竹原区の稲荷神社がまつられている。また、本殿脇には北山村竹原区、七色区それぞれの山の神様をまつった丸石が置かれている。
縁起
元弘元年(1331年)、南朝の本拠地であった傘置から難を逃れて熊野に渡った後醍醐天皇の皇子、護良親王をお守りしたのが、北山村竹原の豪族、竹原八郎だった。
護良親王を迎えて竹原の地で策を練り武力を固めた竹原八郎は伊勢方面に出陣して六波羅を驚かし、これを機に諸国の武将が蜂起してついに北条氏は滅びたのである。
護良親王は竹原八郎の娘を召されて若君が出生されたが、幼くして亡くなってしまった。土地の人々が若君の御霊を尊びおまつりしたのが、骨置神社である。
(てつ)
2011.12.01 UP
2015.6.30 更新
2021.4.18 更新
参考文献
骨置神社へ
アクセス:JR熊野市駅から車で約40分
駐車場:駐車場なし