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『熊野年鑑』現代語訳 後一条

後一条天皇

現代語訳

寛仁3年 己未(つちのとひつじ) 1019年 

異国が壱岐の島に来て雅正を害した。

※刀伊の入寇(といのにゅうこう)。雅正は壱岐守・藤原理忠(ふじわらのまさただ)のことと思われる。

壱岐の被害

賊徒は続いて、壱岐を襲撃。老人子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした。賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3,000人という大集団には敵わず玉砕してしまう。

藤原理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとした。これに対し、嶋分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の下、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦した。そして賊徒を3度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい嶋分寺は陥落した。この時、嶋分寺は全焼した。島民148名が虐殺され、女性239人が拉致された。生存者はわずか35名。

刀伊の入寇 - Wikipedia

万寿2年 乙丑(きのとうし) 1025年

夏より秋まで赤疱瘡(あかもがさ:はしか)が多かった。

長元元年 戊辰(つちのえたつ) 1028年

熊野に初めて疱瘡が入って、死ぬ人が多かった。

長元2年 己巳(つちのとみ) 1029年

京の人の間で腫れる病気が広がった。世に福来病(ふくらいびょう:おたふくかぜ)と言う。

長元3年 庚午(かのえうま) 1030年

熊野で大風があり、飛鳥社を破壊した。飛鳥社は遷宮した。

長元6年 癸酉(みずのととり) 1033年

熊野で長さ7尺の猪が出て、8月に殺した。9月に池乃峯で水玉がおよそ1丈(約3m)ばかり上った。

※池乃峯は奈良県吉野郡下北山村池峯。明神池があり、役行者が開いたと伝わる池神社がある。池神社のご神体は明神池。池乃峯は「大峯禅定の秘所」と呼ばれた。

長元7年 甲戌(きのえいぬ) 1034年

熊野三山造営を言上した。

長元8年 乙亥(きのとい) 1035年

熊野の有馬浦に大魚が上がった。長さ4丈8尺(約14.4m)。

※この大魚とは鯨であろう。

原文

寛仁 己未

異国来テ壱岐島雅正ヲ害ス

万寿 乙丑

自夏秋マテ多赤疱瘡

長元 戊辰

熊野ニ始テ疱瘡入テ死スル人多シ

二 己巳

京人腫世ニ福来病ト云

三 庚午

熊野大風飛鳥ヲ破同遷宮

六 癸酉

熊野猪出長七尺八月ニ殺九月池ノ峯水玉上ル事凡一丈許

七 甲戌

熊野三山造営言上

八 乙亥

熊野有馬浦ニ大魚上ル長四丈八尺

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(てつ)

2022.9.14 UP

参考文献