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鼻欠地蔵

左甚五郎が弟子の鼻を

 熊野古道「大日越え」にある鼻欠地蔵の伝説。

 左甚五郎(ひだりじんごろう:江戸初期の伝説的な彫刻師、1594~1651)が湯の峰に仕事に来ていた。本宮に泊まり、大日越え(湯の峰と本宮を結ぶ熊野古道。大日峠を越える)で湯の峰に通っていた。弟子は甚五郎の弁当を持って大日峠を越え、弁当を甚五郎に届けていたが、毎日、峠にあるお地蔵さまに弁当を一箸分供えて師匠の安全を祈っていた。

 それを知らぬ甚五郎はいつも一箸分弁当が減っているのを、弟子が盗み食いしていると勘違いし、ある日、些細なことを理由にその弁当持ちの弟子の鼻をチョンナ(木材をはつる大工道具)で削いでしまった。弟子は血まみれでその場を逃げ出す。
 その日の夕方、仕事を終えた甚五郎は、やり過ぎたことを悔やみながら、峠にさしかかると、そこのお地蔵さまの鼻がまるでチョンナで削がれたように欠けており、血が流れていた。 お地蔵さまが弟子の身代わりになってくれたのだ。

左甚五郎

 左甚五郎は伝説的な人物で、実在は不明です。日光東照宮(栃木県日光市)の眠り猫や三猿は左甚五郎の作だと伝えられます。和歌山県では紀州東照宮の緋鯉真鯉、粉河寺の野荒らしの虎、加太春日神社の力士像などが左甚五郎の作だと伝えられます。

 鼻欠地蔵の上のような伝説が語られたのは、湯の峰に左甚五郎の作だと伝えられる彫刻があったからでしょう。湯の峰には以前、見事な多宝塔があり、そこに左甚五郎の作とされる彫刻があったようです。

湯の峰の多宝塔

 湯の峰の多宝塔は後鳥羽上皇による建立だとも伝えられます。『紀伊国名所図会』には以下のように記されています(以下はてつによる現代語訳)。

多宝塔

三間四面である。

本尊は多宝如来、文殊、普賢(仏師春日の作あるいは定朝作とも)。
塔内は四方板張で、真言八祖の画像を描く。筆者不明であるが、後鳥羽上皇の御建立であるという。

(『紀伊国名所図会』熊野編巻之二 現代語訳)

 この多宝塔は明治元年(1868年)から始まった神仏分離政策のために明治の初めのうちに取り壊されたようです。

熊野本宮の神宮寺湯峰温泉東光寺にも明治初年まで多宝塔があった。左甚五郎作と伝える精巧なものであったようで、今跡は交番となり、その横にこの温泉の開発者大阿刀尼の墓と伝える宝篋印塔がある。

(中西亨『日本の塔総観 近畿地方篇 増補改定版』文華堂書店)

(てつ)

2005.3.22 UP
2022.7.18 更新
2024.11.4 更新

参考文献