24年の在院期間で28度の熊野詣
建久3年(1192)、34回もの熊野御幸を行った後白河上皇が没し、源頼朝は征夷大将軍に任命され、時代は鎌倉時代へと入っていきましたが、熊野御幸は終焉を迎えませんでした。
鎌倉に武家政権ができたといっても、京都には天皇・上皇を中心とする公家政権が変わらず存続し、後白河上皇没後も、後鳥羽上皇が院政を引き継ぎ、熊野御幸をも継承しました。
後鳥羽上皇(1180~1239)は高倉天皇の第4皇子。平家一門が安徳天皇を伴って都落ちしたことを受けて、寿永2年(1183)、祖父・後白河法皇の意向で4歳で即位しました。15年の在位の後、建久9年(1198)に19歳で譲位、院政を開始し、土御門・順徳・仲恭の三代に渡って院政を行いました。
後鳥羽上皇は、譲位したその年にさっそく熊野御幸を行うほど、熊野信仰に熱心でした。その熱心さは生涯に34回もの熊野御幸を行った後白河上皇をも凌ぐということができるかもしれません。
後白河上皇は35年の在院期間のうちに34回の熊野御幸を行ったのに対し、後鳥羽上皇は24年の在院期間のうちに28回。往復におよそ1ヶ月費やす熊野御幸を後鳥羽上皇はおよそ10ヶ月に1回という驚異的なペースで行いました。
鎌倉幕府の干渉を嫌った後鳥羽上皇は自ら弓馬などの武芸を好み、これまでの北面の武士に加え、西面の武士を置き、また諸国の武士を招くなどして、幕府の配下にない軍事力の掌握に務めました。
したがって、後鳥羽上皇の度重なる熊野御幸には、熊野を味方につけるという政治的な意味合いも強かったものと思われます。
後鳥羽上皇の熊野御幸で特徴的なのは、道中のところどころの王子社などで、和歌会が催されたことです。
熊野詣の途上、王子社などでは、神仏を楽しませる法楽として、白拍子・馴子舞・里神楽・相撲など、様々な芸能が演じられましたが、和歌に熱心だった後鳥羽上皇の熊野御幸では神仏を楽しませるために和歌の会が催されました。
28回の後鳥羽上皇の熊野御幸のうち、史料的に和歌会が催されたことが確認できるのは、3回目の正治2年(1200)の御幸と4回目の建仁元年(1201)の御幸の2回のみ。
そのうち、建仁元年の熊野御幸では歌人の藤原定家がお供し、その様子を日記『後鳥羽院熊野御幸記』に記していて、それによると、住吉社・厩戸王子・湯浅宿・切部王子・滝尻王子・近露宿・本宮・新宮・那智の9ケ所で和歌の会が催されていることがわかります。
『新古今和歌集』編纂の院宣が下されたのは、この建仁元年の熊野御幸から帰京して数日後のことでした。
鎌倉時代の説話集『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』には後鳥羽上皇の熊野御幸にまつわるこんな話が記されています(巻第七 術道・300)。
後鳥羽院が御熊野詣なさるのに、陰陽の頭(陰陽寮の長官)在継(ありつぐ。賀茂在継。造暦・文章博士・大膳大夫)を召してお連れになったときのこと。
後鳥羽院は毎日、御日課として千手経を読誦なさっていた。件の御経を御経箱に入れられていたのを取り出しになろうとしたが、その御経が見えない。どんなに探しても見つからなかったので、在継をお呼びになって占わせられたところ、けっしてなくなってはいないということを申して、「もっとよくよくお探しになってください。手違いでいまだ箱の中にございますので」と申した。
その後、またお探しになったところ、御経箱のふたに御経の軸が詰まって付いていたのを見逃していたのであった。後鳥羽院は御関心なさって、在継に御衣をお与えになったという。
上皇や女院、貴族が熊野参詣を行う場合、陰陽師に占わせ、参詣の日程を決定しました。
熊野参詣に限らず、平安時代の皇族・貴族たちは陰陽師の占いによって行動の指針を得ていました。
陰陽道は、中国の自然哲学「陰陽五行思想」に基づいて天体を観測して、暦を作り、吉凶を占う占星術のようなものです。
飛鳥時代に陰陽寮という政府機関が設置されて以降、国家を運営する上で重要な役割を陰陽道は果たしましましたが、平安時代になると、陰陽道は貴族の間で大流行し、貴族の日常の行動にまで指針を与えるようになりました。
平安末期の熊野信仰の隆盛には少なからず陰陽道の影響があったものと考えられます。陰陽道の占いによって行動の指針を得ていたのですから、陰陽師の支持なしに上皇や貴族の熊野参詣が可能であったとは考えられません。
陰陽道と熊野との関わりはよくわかりませんが、陰陽師と熊野修験者との間には何らかの交流があったのだと思います。
神社のお札は陰陽道の符呪を元とするそうで、熊野牛王宝印も陰陽師と熊野修験者との交流のなかに生まれたものなのかもしれません。熊野信仰は古来の自然崇拝に仏教や修験道などが混交して成り立った、ある意味「何でもあり」の宗教ですから、陰陽道をもためらいもなく取り入れたのではないかと思います。
史上最高の陰陽師安倍晴明も那智の滝で修業したと伝えられますし、熊野九十九王子のひとつであった安倍王子神社は境外末社として安倍晴明神社をもち、篠田王子は、聖(ひじり)神社という陰陽師の神を祀る神社や葛ノ葉稲荷神社(信太の森神社)の近くにありました。
また東京都葛飾区立石の熊野神社は陰陽師安部春明により勧請され創建されたと伝わります(安部春明は安倍晴明にもじって付けられた架空の陰陽師の名前でしょうか)。
しかし、熊野のこういう「何でもあり」のところが、神道国教化政策を進める明治政府には気に入らなかったのでしょうね。熊野の神社の8割から9割が廃滅されたといいますし。記紀神話や延喜式神名帳に名のあるもの以外の神々は熊野では大方滅ぼされてしまいました。
承久元年(1219)、三代将軍源実朝が暗殺されて源氏の将軍が絶えると、後鳥羽上皇と鎌倉幕府との対立が先鋭化し、承久三年(1221)5月、後鳥羽上皇はついに北条義時追討のために挙兵。承久の乱が起こりました。
承久の乱が起こる3ヶ月前に、後鳥羽上皇は28回めの熊野御幸を行っており、熊野で鎌倉幕府打倒の密談が行われた可能性もあります。
熊野三山検校であった長厳(ちょうげん)の勧めのより上皇が挙兵した可能性は高く、熊野は上皇方の兵力として期待され、上皇のもとには熊野の衆徒たちが多く駆けつけましたが、短期決戦に出た鎌倉軍に京都は瞬く間に制圧されてしまいました。上皇方に参加した熊野権別当・小松法印快実(かいじつ)とその子・千王禅師(せんのうぜんじ)も討ち死にしてしまいました。
敗れた後鳥羽上皇は、院政の経済的基盤である全国3000ケ所に及ぶ荘園を鎌倉幕府に没収され、隠岐(島根県)に配流されてしまいます。
熊野御幸を準国家的行事として営んできた院政政権はこの乱の敗北により崩壊し、熊野御幸は終焉に向かいます。承久の乱後は、わずかに後嵯峨上皇が2回、亀山上皇が1回詣でているのみです。
隠岐に流された後鳥羽上皇は終生許されることなく、19年にわたる配所生活の後、60歳で崩御しました。
(てつ)
2003.3.12 UP
参考文献
- 西尾光一・小林保治 校注『古今著聞集 上』新潮日本古典集成
- 小山靖憲『熊野古道』岩波新書
- 梅原猛『日本の原郷 熊野』新潮社
- 監修・神坂次郎『熊野古道を歩く 熊野詣』講談社カルチャーブックス