第22代熊野別当、行快
建長六年(1254)成立の橘成季(たちばなのなりすえ)編著の説話集『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』に第22代熊野別当、行快(ぎょうかい。第19代行範の子。母は源為義の娘「鶴田原の女房」)の若いときの話があります。
正上座行快海賊を射退くる事
正上座という弓の上手(行快。「上座」は寺院の僧職のひとつで、「正上座」は行快の僧職にちなんだの行快の呼称。叔父に強弓で知られる鎮西八郎為朝がいた)が若かったとき、三河国(愛知県)から熊野へ渡ったが、伊勢国(三重県)のいらごのあたりで海賊に遭った。
悪徒らの船がすでに近づいていて「積み荷の御米を差し出されよ」と言ったのを、正上座は人を出して「これは熊野へ参る御米である。賊徒らの望みに答えられるものではない」と言わせた。
こういうのを聞いて、悪徒は「熊野の御米と見たからこそ普通ならば有無を言わせず強引に船を止めるのだが、遠慮をして言葉をかけているのだ」と言う。
上座はそのとき、腹巻(鎧の一種)を身につけ、弓に蟇目(ひきめ。中空で数個の穴をあけた木製の矢尻。高音響を発する)の矢ひとつ、神頭(じんどう。先端が平らで広い木製の矢尻。鳥・兎・狸を射るのに用いた)の矢ひとつを取り揃えて、楯を構えさせて、船の舳(へ。船首)に進み出て、「悪徒らの望み申すことは、とうてい叶えられない。止められるものならば止めてみよ」と言った。
すると、海賊一人が武装して出てきて、言葉戦い(合戦の前の前哨戦として行われた言葉による戦い)をした。
海賊は船に幕を引き回して、楯を構えて、その中に大勢の悪徒らがいる。しばらく言葉戦いをして、上座はまず蟇目で海賊を射たところ、海賊はかがみ込んで、矢を上に通過させた。蟇目が耳を響かせて通過してすぐ、海賊が立ち上がるところを、いつの間に矢をつがえたのだろうか、神頭で、立ち上がった海賊の眉間を射て、うつ伏せに倒れた。
この矢をつがえる速さに海賊らは驚いて、「これはどなたでおいでなのでしょうか」と問うたところ、「お前らは知らないのか。正上座行快であるぞ」と名乗って、「この辺の海賊はきっと熊野育ちの連中であろうと思うので、手加減をして手並みを見せようぞ」と言った。
すると、海賊らは「それならば初めからそうおっしゃってくださればよかったのに。すんでのところで過ちを犯すところだった」と言って、漕ぎ帰ってしまった。
宗教組織の長でもあり軍事組織の長でもある
行快の先代、第21代熊野別当湛増は、源平の壇の浦の合戦において200余艘に及ぶ熊野水軍を率いて源氏方につき大活躍。平家を沈めました。
行快もきっとその海戦で活躍したんでしょうね。
熊野別当は宗教組織の長であるだけでなく、熊野水軍などの軍事組織の長でもあるので、武勇にもすぐれていなければ務まらなかったのだと思います。
(てつ)
2005.8.29 UP
参考文献
- 日本古典文学大系『古今著聞集』岩波書店
- 西尾光一・小林保治 校注『古今著聞集 下』新潮日本古典集成
- 『本宮町史 文化財編・古代中世史料編』