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熊野別当に仕えた背の小さい男

熊野別当に仕えた背の小さい男

 鎌倉時代の高僧、無住(1226~1322)が著した仏教説話集『沙石集(しゃせきしゅう)』に、熊野別当(熊野三山の統括者)が登場するお話があります(巻第八 十七)。

魂魄ノ振舞シタル事(現代語訳)

 熊野別当のもとに背の小さい男で、鬼神の魂などののようなものが出てきて、「あなたは勝れた者である。召し仕えたく思います。あなたにお仕えしましょう」と申す。別当は武勇を好む人で、「何者だ?」と問うと、「和州長谷川のほとりで生まれ育った者でございます」と言う。

 長谷川の党はみな心がけがすぐれていると評判が高いのにと思って、「ここへいらっしゃい」と招いたところ、ちょうど酒宴の席で、侍ども百人ばかりが座に着いていたが、別当の長男より下座、長老者より上座にはばかることなく着座する。けしからぬ者だなと人々が思ったところ、別当は酒杯を手に取って長男のほうへ渡したが、挨拶に「これはいかに」と言って新参者に渡すと、ためらいなく取って飲んだ。

 憎らしい奴だなと思って、長男が拳で頬をはたと打つと、直ちに次の座にいた長老者の頬をはたと打った。「これはいかに」と言ったところ、「順番にめぐることかと思いまして」と言って笑った様子がまことに憎らしくなく見えたので、別当からはじめて笑って面白いと思った。

 その者はじつに勇ましかった。変事があると先に立った。鬼九郎(?)には勝った。これは不作法なことでは(2字難読)愚かな者であれば、しなくてよいことをしでかし、人をも害し、自分をも亡ぼしてしまうので、すぐれた振舞をしたことを書き留めて、不作法な者の鑑にしようとしたのだ。愚かな者は戯れをとがめて大事をしでかす。賢い者はまことを戯れにして事をあやまたない。くれぐれも気をつけなければならない。

 ある力者法師(剃髪した駕かき、または中間)が桟敷の前ですだれの中に向かって鼻をかんだのを「なんと無礼な」ととがめられて、かしこまって「粗暴な悪口を仕りました」と言った。

 ある僧は承久とはすべての戦のことをいうと理解して(承久の乱があったために承久が戦を意味すると勘違いした)、「いずれの承久と申しましても、宝治の承久ほどに自害が多かった承久はありません(※宝治元年〔1247年〕に一族五百余人が自害した事件があった)」と言った。おもしろいことだ。

 また、ある僧は、「このほどの余寒(よかん。立春後の寒さ)はいつもとくらべて厳しすぎます」と人が申したところ、「昼寒といっても」と言った。余寒を夜の寒さが厳しいことと心得ていたのだったなあ。

 (現代語訳終了)

熊野別当

 後半の話は熊野別当からは逸れてしまいましたが、前半は武勇を好んだ熊野別当らしいエピソードです。

 熊野別当とは熊野三山の実際の統括者。その役職は社僧(神社に属する僧侶)が務め、代々世襲制。宗教組織の長であるだけでなく、熊野水軍などの軍事組織の長でもありました。熊野別当でもっとも有名なのが、平安時代末期の第21代熊野別当の湛増(たんぞう)です。

(てつ)

2005.8.11 UP
2020.3.13 更新

参考文献