熊野八講会
源為憲(みなもとのためのり。平安中期の学者。?~1011)が、十七歳の若さで出家した冷泉天皇第二皇女尊子内親王(966~985)のために著わし、献上した絵巻物『三宝絵(さんぼうえ or さんぽうえ)』。
『三宝絵』は、若い彼女の出家生活を励ますために書かれました。
尊子内親王の出家は天元五年(982)、十七歳のとき。『三宝絵』が献上されたのが永観二年(984)の冬。しかし、それから1年も絶たぬ寛和元年(985)五月一日、尊子内親王は二十歳で亡くなってしまいました。
『三宝絵』は、やがて絵が散逸し、現在では詞書だけを書き出して読み物としたもののみが残されています(詞書だけのものを『三宝絵詞(さんぼうえことば or さんぽうえことば)』といいます)。僧籍にない文人が若い人向けに書いた仏教入門書であるため、広く人々に読まれました。
『三宝絵』は三巻から成ります。上巻十三話は釈迦の本生譚など。中巻十八話は本朝の高僧伝などで、そのうち十七話までが『日本霊異記』を出典とするもの。下巻は、一年間に催される仏事・法会を月ごとに並べて由来や作法を記しています。
下巻「 十一月」の箇所に「熊野八講会(くまのはっこうえ)」のことが記されています。
熊野八講会は熊野で行われていた法華八講会(法華経八巻を朝夕二座、四日八座で講ずる法会)で、この『三宝絵』の記事は、熊野信仰が盛んになる以前の永観二年(984)当時の熊野八講の様子を知るための貴重な資料であり、また「新宮」「本宮」という名称の記録上の初見も、『三宝絵』のこの記事です。
尊子内親王は残念ながら熊野を詣でルコとはできませんでしたが、彼女の弟花山法皇は正暦二年(991)に熊野を詣でています。
(二十九)熊野八講会
紀伊国牟婁郡に神がいらっしゃる。熊野両所と證誠一所と名づけたてまつっている。
両所は母と娘である。結早玉(むすびはやたま)と申し上げる。
一所は添える社である。この山の本神と申し上げる。
新宮、本宮(ここが「新宮」「本宮」という名称の記録上の初見)でみな八講を行う。紀伊国は南海の際、熊野郷は奥の郡の村である。山が重なり、河が多くて、行く道は遥かに遠い。春に出て秋に到着する人が稀なくらい、熊野への道のりは遥かである。
山の麓にいる者は木の実を拾って命をつなぐ。海のほとりに住む者は魚をとって生物殺生の罪をつくる。もしこの社がなかったならば、八講も行われなかっただろう。この八講がもしなかったならば、三宝をも知らなかっただろう。
五十人まで語り伝えることさえも困難な茫漠たる広い遠いこの土地で妙法を広めお聞かせになったのは、菩薩が熊野三神となって垂迹したものとと言ってよいだろう。四日間八座の檀越(だんおつ。施主)や執行(しゅうぎょう。寺内の実務を司る事務職の役僧)は、ただ来ている人が進めるのに従う。八座の講師、聴衆(法会に参列し説法を聴聞する役の僧)は、集まっている僧が勤めるのに任せている。
僧に出す供養の食事には、鉢や椀を使わない。木のコウ(木の表面の堅い部分か)に受け、帯袋(おびぶくろ。旅のとき乾飯(ほしいい)などを入れて腰につけた帯状の袋)に入れる。講説(こうぜち。経典を講義し解説する僧)は、裳袈裟も着ずに鹿の皮でつくった衣を着、脚絆をしている。身分が貴いとか賤しいとか、年老いているとか若いとかも、ここでは関係ない。
賢愚経に、「仏が五種類の施しをお誉めになる。その五種類の施しをすれば無量の幸いを得て、この世で ることができる。遠くから来た人に施しをすることと、遠くに去る人に施しをすることと、飢え疲れた者に施しをすることと、病いをした者に施しをすることと、仏法を知った人に施しをすることとである」とある。
僧たちに供養しているこの熊野八講会の法場を見ると、五種類の施しをみな備えている。ここまで訪れた人は遠くから来た人である。帰ろうとする人は遠くに去る人である。食乏しき者は飢え疲れた者である。足の腫れた者は病んで苦しむ者である。経を読み、呪を誦する人は仏法を知った人である。檀越が幸いを得ることは疑いない。
また優婆塞戒経(うばそくかいきょう)に、「菩薩は物を施すときに、善人悪人を問わず、身分の貴賤を選ばず、受ける人に荒い言葉をかけない」とある。
また大智度論に説くのを聴くとこんな話がある。一人の長者がいた。毎日順番を決めて年老いた僧だけを招いて供養した。沙弥(しゃみ。出家して日が浅くまだ修行中の僧)は招かなかった。羅漢の位を得た幾人かの沙弥たちが姿を変えて老僧となって、その家を訪れた。眉は雪のように白く、顔のしわは波のようである。座について後、もとの沙弥の姿になった。檀越は驚き悔やんだ。沙弥は教えて言った。
「汝は愚かにも僧の善悪を定める。蚊や虻の口で海の水を飲み尽くすことはできない。人の心で僧の徳をはかってはならない。我らは仏法僧宝に優劣があることを見たことはない」
私(作者。源為憲)はいま、広くお諭しします。あなた(尊子内親王)はそれをどうかお聞き届けください。差別の心をもつことなく、同じように供養なさい。僧を分け隔てなさってはなりません。
熊野両所と證誠一所
紀伊国牟婁郡には熊野両所と證誠一所という神がいらっしゃるというのは現在のの熊野速玉大社との熊野本宮大社でしょう。平安時代中期、熊野三山の体制ができる前の時代のことです。
熊野速玉大社は熊野速玉神と熊野牟須美神を主祭神として祀り、熊野本宮大社は熊野家津美御子神を主祭神として祀ります。
両所は母と娘であるとありますが、現在では夫婦神とされています。 熊野速玉神が夫で、熊野牟須美神が妻。しかし、もともとは牟須美神が母で、速玉神が娘であったのでしょうか。それが中央の神話体系に組み込まれることにより速玉神が速玉男命と同一視されて男神となり、速玉神が夫で牟須美神が妻となったのかもしれませんね。熊野の神様はよくわかりません。
證誠一所は両所と寄り添う社で、二社三神は一体であり、證誠一所は熊野山の本宮である。という意味でしょうか。
(てつ)
2005.9.16 UP
参考文献
- 新日本古典文学大系31『三宝絵 注好選』岩波書店