4代熊野三山検校・覚讃が得た熊野権現の夢告
鎌倉時代の説話集『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』にこんな話があります(巻第一 神祇第一・二八)。
助僧正覚讃、夢に若王子託宣の歌を賜る事(現代語訳)
助の僧正(そうじょう)覚讃(かくさん)は先達(せんだつ:行の指導者)の山伏である。那智千日行者で、大峰修行数度の先達である。五十を過ぎて有職(うしき:僧の職官)にも補任されないのを憂えて、若王子(にゃくおうじ:熊野十二所権現のひとつ。本地仏は十一面観音)に歌を詠んで奉った。
山川のあさりにならでよどみなば流れもやらぬものや思はん
(訳)山川が浅瀬にならないで淀んでしまったら、流れも滞ってしまうように、私も阿闍梨になれず、物思いをしてしまいます。
すると、夢の中で若王子からお返事を賜った。
あさりにはしばしよどむぞ山川のながれもやらぬものな思ひそ
(訳)阿闍梨にはしばらくなれないが、山川の流れが滞ってしまうような物思いをするな。
(現代語訳終了)
阿闍梨
この二首の歌の「あさり」は、「浅り(=浅瀬)」と「阿闍梨」を掛けています。
「五十を過ぎて有職にも補任されないのを憂えて」とありますが、有職(うしき)とは僧綱(そうごう)に次ぐ職官で、国が優秀な僧に与える官位です。已講(いこう)・内供(ないぐ)、阿闍利(あじゃり)の3つの僧官があり、とくに阿闍利は、護摩・祈祷に霊験のある僧に送られることが多かったそうです。
覚讃は修験者であったので、阿闍利になることを願ったのですね。
鎌倉時代中期の説話集『十訓抄(じっきんしょう)』の第十にある類話では、
山川のあさりにならでしづみなば深きうらみの名をや残さん
と、恐い歌になっています。
また、『園城寺伝記』では、返歌について「御簾の内より貴女の声して御返歌に云はく」とあるそうです。
熊野権現の夢告
熊野権現は夢を通じてメッセージを伝え、そのメッセージを巫女が読み解いて熊野権現の託宣を告げます。
『保元物語』のなかで、鳥羽上皇は本宮の神前で不思議な夢を見、それを巫女に読み解いてもらったところ、自分が間もなく死ぬであろうということを巫女に歌で告げられました。そして、その熊野権現の託宣通りに鳥羽上皇は間もなく亡くなりました。
覚讃は「阿闍梨にはしばらくなれないが、物思いをするな」との夢告を得て、心に平安を取り戻したのでしょう。
結局、覚讃は、鳥羽院から阿闍梨に任命され、最終的には僧官の最高位である僧正にまでなったようです。
覚讃
覚讃は仁平二年(1152)に熊野三山検校に補任され、のちに園城寺(おんじょうじ。通称・三井寺。滋賀県大津市園城寺町)の長吏(ちょうり。最高責任者)となり、治承4(1180)年9月に没しました。
熊野三山検校は熊野三山を統括する最高位の役職で、初代の熊野三山検校・増誉(ぞうよ。1032~1116)以降、園城寺(通称・三井寺。天台寺門宗の総本山。西国三十三カ所霊場第十四番札所 。滋賀県大津市園城寺町)系統の僧が熊野三山検校を兼務しました。覚讃は4代熊野三山検校。
熊野の現地に熊野三山の実際の統括者である熊野別当がいたので、熊野から離れた場所を拠点としている僧が任じられた熊野三山検校という役職は多分に名誉職的なものでしたが、熊野三山検校には熊野御幸の先達という重要な職務がありました。
後白河上皇撰述の『梁塵秘抄』の口伝集には1回目(1160)と2回目(1162)の熊野御幸のことを記した箇所に「法印覚讃」「覚讃法印」とその名があります。
僧綱
有職の上の職官である僧綱について少し。
僧綱は全国の僧尼を統轄するため、国が僧に与えた官職で、僧正(そうじょう)・僧都(そうず)・律師(りっし)の3つの僧官があります。僧正が僧綱の最高位です。 のちに法印(ほういん)・法眼(ほうげん)・法橋(ほっきょう)の3つの僧位(僧綱とは別に与えられた位。官職ではなく勲章のようなもの)についてもいいました。
ついでながら、熊野別当(熊野三山の実際の統括者)は白河上皇の初回の熊野御幸以降、法橋の地位を与えられていました。
(てつ)
2002.9.16 UP
2020.9.10 更新
参考文献
- 西尾光一・小林保治 校注『古今著聞集 (上)』 新潮日本古典集成