歴代上皇最多となる33度もしくは34度に及ぶ熊野詣
後白河上皇(1127~1192)の撰述に成る『梁塵秘抄』は、歌集十巻、口伝集十巻の計二十巻であったと推定されますが、今日現存するのは、わずかに歌集巻一の断簡と巻二、口伝集巻一の断簡と巻十のみ。
歌集ももちろん面白いですが、口伝集も面白い。後白河上皇がいかに今様に夢中だったのかがわかります。遊女(あそび)や傀儡子(くぐつ)ら女芸人たちとの交流の様も見え、後白河院の熱烈な仏教信者ぶりも知ることもできます。
後白河院は、歴代の上皇のなかで最多の33回もしくは34回もの熊野詣を行うほどの熱烈な熊野信者でした。本地垂迹思想の浸透していた当時、熊野本宮は阿弥陀如来の浄土と考えられており、熊野信仰は仏教信仰の一形態なのでした。熊野を信仰することと仏教を信仰することになんら矛盾はなかったのです。
口伝集には、1回目と2回目、そして12回目の熊野詣のことが記されていますので、それを紹介します。
さて、1回目の熊野詣は、1160年、後白河院34歳のときのこと。前年12月には平治の乱が起こっています。
私は永暦元年10月17日より精進を始めて、法印覚讃(かくさん)を先達にして、23日に出発した。25日、厩戸王子の宿で、左衛門尉であった藤原為保(ためやす)は、自分が連れていた先達の夢に王子が現われ、
「この度お参りになったのは嬉しいけれど、古歌を歌ってくれないのが残念だ」
と、おっしゃったということを言った。
「もとより道中の王子社では、歌舞の奉納などすることをするということだが、御所さまの今様などはあってしかるべきものを」
などと言う近臣もあったが、
「あまり下賤の者が多いのにオープンなのも」
などと言う近臣もあって、そのままになっていたが、この夢の話を聞いて、あれこれ思案せずに歌うことにして、厩戸を夜遅く発って、長岡王子に夜のうちに参った。
そのときに、連れだっていた平清盛(のちの太政大臣。当時はまだ大弐と呼ばれていた)にこの夢のことを相談してみたところ、
「そのようなことがございますなら、それももっともなことです。とやかく申すまでもございません」
というようなことを清盛は答えた。
清盛は内心、
「雑人などがたいへん数多くいるので、どうか」
と、思っているうちに、ふらふらと寝入ってしまったところ、夢うつつに、正式の礼服をした先払いの者を連れた唐車(からぐるま。最上の牛車)が王子社の御前に止まるのを見た(唐車には、王子が乗っているのでしょう。王子とは熊野権現の御子神。熊野権現の分身だと考えればよいと思います)。
院の歌を聞いているのだろうかと思って、はっと目を覚ましたところが、今様を院が歌っている最中であった。その歌がこれ。
熊野の権現は
名草の浜にこそ降りたまへ
若の浦にし ましませば
年はゆけども若王子
この話を清盛は資賢(すけかた)卿に語って、驚かれたことだった。
先の先達の夢と後の清盛の夢。この二つが思いあわされて、人々は現兆だと言いあっていた。
11月25日、幣を奉り、経供養・御神楽などを奉納しおわって、礼殿にて、私の音頭で、古柳から始めて、今様・物様まで(古柳・今様・物様、みな今様の種類の名前らしいです)数を尽くす間に、次々に琴・琵琶・舞・猿楽を尽くした。初めての熊野詣のときのことである。
2回目の熊野詣は1162年のこと。
応保2年正月21日より精進を始めて、同27日に発つ。
2月9日、本宮に幣を奉る。本宮・新宮・那智の三山に三日ずつ籠って、その間、千手経を千巻(1000回)転読してたてまつった。
同月12日、新宮に参って、幣を奉る。その次第はいつもの通りである。夜が更けてからまた社殿の前へ上って、宮廻ののち礼殿で通夜、千手経を読んでたてまつる。しばらくは人がいたけれど、片隅で眠るなどして、前には人も見えない。通家が経を巻きもどす役をしていたのだが、居眠りしている。
次々に奉幣なども終わり静まって、そろそろ夜半を過ぎただろうかと思われたころ、神殿のほうを見やると、わずかの火の光に御神体の鏡がところどころ輝いて見える。しみじみと心が澄んで、涙も止まらず、泣きながら千手経を読んでいたところ、資賢が通夜を終えて、明け方に礼殿に参りに来た。
「今様が欲しいものだ。今ならきっと趣が出るよ」
と、私は資賢に勧めたが畏まっているばかり。仕方なく、私みずから歌いだす。
よろづのほとけの願よりも
千手の誓ひぞ頼もしき
枯れたる草木もたちまちに
花さき実なると説いたまふ
繰り返し繰り返し、何度も歌う。資賢・通家が和して歌う。心澄ましてあったせいだろうか、いつもよりもすばらしく趣深かった。
覚讃法印が宮廻りを終えて、社殿の前にある松の木の下で通夜をしていたが、その松の木の上で、
「心とけたる只今かな(いま、私の心はくつろいでいるよ)」
と、神の歌う声がしたので、夢うつつともなく聞いて、びっくりして、慌てて礼殿に報告しに来た。
一心に心を澄ましていると、このような不思議なこともあるのだろうか。夜が開けるまで歌い明かした。これが2回目である。
次は12回目。1169年、院43歳のときのこと。
仁安4年正月9日より精進を始めて、同14日に発つ。26日に幣を奉る。今度が12回目にあたり、出家の暇乞いを申しあげに参る。いつものように王子社での今様、礼殿での音楽などはたびたびあった。
俗体では今回が最後の熊野詣になるだろうと思われるので、私ひとり両所権現の御前で長床に横になった。かがり火の光があって、ついたて・ふすまを少し隔てて、身分による区別もなく、かたわらに成親(なりちか)・親信(ちかのぶ)・業房(なりふさ)・能盛(よしもり)、前のほうに康頼(やすより)・親盛(ちかもり)・資行(すけゆき)、従者らが雑魚寝した。
こちらは暗くて、かがり火の御神体の鏡、十二所権現おのおのが光を輝かして、神々の姿が映るかのように見える。あれこれの奉幣の物音が次々に聞こえる。神仏を供養する般若心経、もしくは千手経・法華経、各自の意向に応じて尊い。
経供養のついでに、長歌から始めて古柳「下がり藤」を歌う。次に十二所の心の今様(おそらく熊野十二所権現のことを歌った今様)を、そののち、娑羅林・常の今様・片下・早歌、主だった歌はみな歌い尽くす。神歌などを歌い終えて、大曲のような歌を歌い、足柄・黒鳥子・旧川を終えて、伊地古を歌う。
明け方に人がみな静かになって、人の音もしないで、心澄ましてこの伊地古を特別に歌ったところ、両所権現のうちの西の御前(結の宮)のほうで、えもいわれぬ麝香(じゃこう)の香がする。
「これはどういうことだ。この香、嗅いだか」
成親は親信に言った。その座の人みなが不思議に思っていると、今度は神殿が鳴るような音響を立てた。
「これはどうした」
また成親が驚いて言った。
「ようにんのかりおほいしたるに、鶏の寝たるが音にこそ(意味がわかりませんでしたが、狸穴さんから「おそらく『用人の仮覆いしたるに』だと思います。『使用人が、仮小屋を建てたところに、鶏が飛び乗って寝ようとした音』ではないか」とのメールをいただきました。なるほど、そうかもしれないと思いました。ようにんは傭人かもとも思いました)」
と、私は言った。
神殿のすだれが、掲げて人が入るときのように動いて、それに懸かっていた御神体の鏡がみな鳴りあって、長いこと揺れていた。
私達は驚いてその場を立ち去った。寅の時(午前3時~5時)であったであろう。
後白河上皇はこの3度の熊野で起こった不思議な出来事を語っています。これを読んでわかったのは、神とは夢かうつつかの半覚醒状態の時に現われるものなのだということ。
こんな今様もありますし。
ほとけは常にいませども
うつつならぬぞあはれなる
人のおとせぬあかつきに
ほのかに夢にみえたまふ
(巻第二 26)
後白河上皇は、この口伝集の他にところで、今様についてこう述べています。
この今様、今日行われているのは娯楽一本というわけではない。心を尽くして神社・仏寺に参って歌うと、示現(神仏が霊験を現わすこと)を被り、望みが叶わないということがない。官職を望むことも、命を延ばすことも、病をたちどころに治すことも可能だ。
後白河上皇の望むことは、極楽往生。
今はよろづを抛(な)げ棄てて、往生極楽を望まむと思ふ。
そのための33回(34回)にわたる熊野詣だったのでしょうか。
後白河上皇は、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代にわたって院政をとり、武家勢力に対抗しつづけたしたたかな政治家でもありました。後白河上皇は、その権謀術策により、平家や木曽義仲や源義経や奥州藤原氏を滅ぼし、源頼朝には「日本一の大天狗」と恐れられました。
そのような権謀術策ぶりと、ただただ極楽往生を望むという姿は、なんだかイメージ的にそぐわないような気がしますが、かえってあくどいことをしている人間のほうが本気で極楽往生を願うものなのかもしれません。
今様に夢中のうつけ者の皇子が成りゆきによって天皇となり、上皇となり、武家勢力と相対峙することになったものの、そのような政治的なことよりも、ほんとうは今様を徹夜で歌いあかしたり、今様の名手の女芸人に歌を習ったりすることのほうが性に合っていたのでしょうね。
後白河上皇、最後には頼朝に地頭職を握られ、院政の財政的な基盤を切り崩されてしまいます。
(てつ)
2002.9.22 更新
2009.6.8 更新
参考文献
- 新潮日本古典集成『梁塵秘抄』新潮社
- 梅原猛『日本の原郷 熊野』新潮社