み熊野ねっと 熊野の深みへ

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熊野先達、金になること

たちまち金になった熊野先達

 鎌倉時代の高僧、無住(1226~1322)が著した仏教説話集『沙石集(しゃせきしゅう)』に熊野先達(くまのせんだつ)が登場するお話があります(拾遺〔六〕)。

 熊野先達とは熊野詣の案内役をする僧のことです。
 熊野は辺境の山岳地帯にあり、参詣には道案内人が必要とされ、それを山伏がつとめました。この道案内人を先達と呼び、先達は道案内だけでなく、道中の儀礼や作法の指導も行いました。

拾遺〔六〕(現代語訳)

 熊野へ詣でる女房があった。先達はこの檀那(だんな:先達によって案内される信者のこと)の女房に心をかけて、その気持ちを女房に度々伝えた。
 先達の心が変わらないので、女房は「明日の夜」「明日の夜」と言ってしばらくごまかしてきたが、もうごまかしきれず「今夜でございます」と言ってしまった日の夜、この女房は物思いをしている様子で食事もしない。

 年来近くに仕えていた女人が主人のその様子を見て、「何をお思いになっているのですか」と問うたところ、これこれと語って、「年久しく思い立って参詣するのにこのような心配事があるので、ものも食べられない」と言う。
 「でしたら、夜なので誰ともわからないでしょう。私が身代わりになり申し上げてどのようにでもなりましょう」と女人は言い、「私とても身を徒らにするのは悲しいことですが」とも言う。二人は互いに泣くより他なかった。
 「然るべき前世の契りによって主従となり申し上げましたので、御身に代わって徒らになりますことを、少しも嘆きません」と繰り返しくりかえし泣きながら女人は言った。
 「ならば」と言って、女房は食事をした。

 さて、夜、身を寄せあったところ、先達はたちまち《金(かね)になった》。熊野では死を《金になる》と言った。女人には変わったことはない。
 このことは隠しようもないので、世間に知られたが、都の人々は「問題ない。ただ女人は引き返さずに熊野に参詣するべきだ」と言った。参詣してほんとうにつつがなかった。
 律の制に適っている。心を同じくしての欲愛であれば、二人とも《金になった》だろう。
 主人のために命を捨てて、自分の欲愛の心がないために、罪がなく、律制に違反しないのではないでしょうか。

 (現代語訳終了)

熊野の忌詞

 先達と檀那の関係は案内人と雇い主というような関係ではなく、道中の儀礼や作法を指導したことから師弟関係のようなもので、対等の関係ではなく先達のほうが上位に立ちます。ですから、このような性的な行為の強要もときに行われたのですね。

 ところで、熊野詣の道中では、死ぬことを《金になる》と言いました。

 熊野詣は精進潔斎の道であり、先達の指導のもと、参詣者たちは日々の精進潔斎に励みました。
 熊野権現の御利益はあらゆる人々に無差別に施されるものだとされましたが、しかし、それも参詣者の日々の精進の上に与えられるものでした。
 道中、所々で祓(はらえ)をし、海辺や川辺では垢離を掻き、身心を清め、王子社では幣を奉り、経供養などを行いました。
 また、妄語や綺語、悪口、二枚舌など道理に背く言葉は厳禁で、忌詞を用いることにより妄語などを戒めました。

 《金になる》というのも熊野の忌詞のひとつで、30ほどの忌詞が熊野にはあったようです。例をあげると、

 ●仏→サトリ ●経→アヤマキ ●寺→ハホウ ●堂→ハチス ●香炉→シホカマ

 ●怒り→ナタム ●打擲→ナヲス ●病→クモリ ●血→アセ ●啼く→カンスル

 ●死→カネニナル ●葬→ヲクル ●卒塔婆→ツノキ ●墓→コケムシ ●米→ハララ

 ●男→サヲ ●女→イタ ●尼→ヒツソキ or ソキ ●法師→ソキ

 など。

 熊野詣の道をゆく者はこのような言葉の言い換えを先達から義務づけられました。そのため、道者は自分の口から出る言葉に注意を払わねばならず、自然、妄語も慎むように仕向けられたのでしょう。

(てつ)

2005.8.14 UP
2020.9.10 更新

参考文献