金剛・力士兄弟の剛力
源氏・平家の盛衰興亡を描く軍記物語『源平盛衰記』に記された熊野育ちの大力、金剛力士(こんごう・りきじ)兄弟について。
『源平盛衰記』の巻十一「金剛力士兄弟の事」より現代語訳
金剛左衛門・力士兵衛
金剛左衛門、力士兵衛という侍は、兄弟であった。熊野に生まれ育った者で、十八歳にして五十人分の力を持った剛の者である。金剛力士兄弟が熊野にあったとき、ある人が御殿の南の庭に池を掘ったところ、大石を掘り出した。五十人掛かりでこの石を引き捨てようとしたけれども、少しも動かない。大勢で明日引こうということになって人はみな帰った。
その傍らに僧坊があった。皆石(みないし)といって十八歳になる稚児がいたが、その稚児は、五十人掛かりで引いても動かないのは、人が弱いのか、石が重いのか、疑わしいと思って、うらなしという物を履いて庭に下りて夜中に人に知られぬようにしてこの石を引いてみると、やすやすと動いた。ということは、石は軽かったのだ。人が弱かったのだと思ったので、その石を二段ばかり引いていき、ある僧坊の門を塞ぐように置いた。
明朝、坊主が起きて門を見ると、大石が道を塞いで出入りできないようになっている。天狗の所為かと身の毛がよだって、このことを人に知らせると、上下集って不思議に思った。金剛力士の所為か、四天大王の仕業か、また鬼神が集って引いたのかと言って見ていると、庭にうらなしの跡がある。跡を追って行ってみると、皆石という稚児の坊へ尋ね到った。縁の上にうらなしがある。妻戸を開いて稚児を見ると、兄弟二人の稚児がいた。兄は皆石、十八歳。弟は皆鶴(みなつる)、十五歳になる。
金剛力士兄弟の母は熊野のイタ
静憲法印が熊野参詣のついでに、この稚児のことをお聞きになって、皆石・皆鶴兄弟を呼び出してお会いになった。この稚児の師匠、祐蓮坊阿闍梨祐金に対面して、この稚児の兄弟はどのような人かとお尋ねになると、祐金は答えて、
「母でございました者は『夕霧の板(いた:熊野の巫女のこと)』といって山上無双の巫女、一生不犯の女でございましたが、知らない者が夜毎に通うことがあってもうけた子供です。その巫女は離山して、今は行方知らずです」と申し上げました。
(現代語訳終了)
熊野育ちの大力
熊野育ちの大力として知られる歴史上の人物として平忠度(たいらのただのり、1144~1184。平清盛の弟)がいます。
(てつ)
2008.3.11 UP
2020.3.6 更新
参考文献
- 根井浄・山本殖生 編著『熊野比丘尼を絵解く』法蔵館