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平家物語1 平清盛の熊野詣

平家の繁栄は熊野権現の御利益

1 平清盛の熊野詣 2 藤原成親の配流 3 成経・康頼・俊寛の配流 4 平重盛の熊野詣
5 以仁王の挙兵 6 文覚上人の荒行 7 平清盛出生の秘密 8 平忠度の最期
9 平維盛の熊野詣 10 平維盛の入水 11 湛増、壇ノ浦へ 12 土佐房、斬られる
13 平六代の熊野詣 14 平忠房、斬られる

建春門院滋子の舞


『天子摂関御影』の清盛肖像(南北朝時代)

 『平家物語』にまず最初に熊野が登場するのは、巻一の「鱸(すずき)の事」。

『平家物語』巻一「鱸の事」より一部現代語訳

 そもそも平家がこのように繁栄したのは、ひとえに熊野権現の御利益であると噂された。それは昔、こんなことがあったためだ。
 清盛がまだ安芸守であったとき、伊勢国安濃の津(伊勢平氏の本拠地)から舟を使って熊野へ参詣したときに、大きな鱸(すずき)が舟の中に踊りこんできた。
 先達の修験者が「昔、周の武王の船に白魚は躍りこんだという。おそらく、これは熊野権現の御利益と思われます。召し上がりなさい」と申したので、清盛は十戒を守って精進潔斎の熊野参詣の道中であるけれど、自ら調理して、身を食べ、家子(いえのこ。一門の庶流で本家の家来になっている人々)、侍(血縁関係のない家来)たちにも食べさせた。
 そのためか、以後、吉事のみが続いて、清盛自身は太政大臣にまでなり、子孫の士官の道も、龍が雲に上るよりすみやかであった。九代の前例を越えたのは見事である。

 (現代語訳終了)

たびたび熊野を詣でる清盛、平治の乱の時も

 平家物語の冒頭部で「平家がこのように繁栄したのは、ひとえに熊野権現の御利益であると噂された」と平家繁栄の理由が語られます。

 清盛は20歳で肥後守となりましたが、それは父忠盛(ただもり)の熊野本宮造営の賞の譲りによるものでした。熊野にはそのような縁もあり、清盛はたびたび熊野を参詣しています。

 平治元年(1159)には、子の重盛らを伴って熊野詣をしていたその隙をついて源義朝らが挙兵。切目王子まで来たところで源義朝らの挙兵を知り、ここから急きょ、京に引き返したと伝えられます。その折、清盛・重盛の父子は王子社のの枝を手折って、それぞれ鎧の射向の袖(いむけのそで:弓を射るときに敵に向ける側の袖。左の袖)に挿して護符として、京に引き返しました(『平治物語』上「六波羅より紀州へ早馬を立てらるる事」)。

 京では、義朝らが後白河上皇を幽閉、内裏を制圧して二条天皇を監視下に置き、ほぼクーデターを成功させていていましたが、清盛はみごと二条天皇を救出。 義朝追討の宣旨を奉じて、義朝らを打ち倒しました。熊野権現の加護を受けた清盛・重盛の父子。この平治の乱の勝利により平家は圧倒的な地位を得ます。
 その翌年には後白河上皇の初めての熊野御幸に従っています。そのときのことが『梁塵秘抄口伝集』に描かれて、清盛の名も記されています。

鱸は鈴木!?

 『平家物語』の「鱸の事」に語られているお話は、それらより以前に行った熊野参詣の途上での出来事です。
 熊野詣は精進潔斎の道。行きも帰りも、魚や肉、ネギやニラなどは口にすることはできませんでした。清盛一行も津を出てから精進潔斎を守ってきたはずです。それにもかかわらず、鱸を食すことを先達の修験者が勧めます。
 おそらく、これは、清盛が 熊野三党(熊野の有力者、宇井・鈴木・榎本の三氏)の力、熊野の力を手に入れたということを示しているのだと思われます。

清盛の出世、平家の繁栄

 それにしても、平家一門の繁栄は凄まじいものでした。
 平家は、清盛の祖父正盛(まさもり)の代まで諸国の受領にすぎず、中央の政界では何の力ももっていませんでしたが、清盛の父忠盛が武士として初めて昇殿を許され、平家繁栄の足掛かりを築きました。

 父忠盛の死により家督を継いだ長子清盛(1118~1181)は、当初、安芸守でしたが、後白河上皇に重用され、保元の乱における功により播磨守に移り、太宰大弐になり、さらに平治の乱を鎮圧した功により正三位と昇進。宰相、衛府督、検非違使別当、中納言となり、従二位を叙され、大納言へと出世街道を駆け上がります。
 その間、清盛の妻の妹滋子が後白河院の後宮に入って、憲仁親王(高倉天皇)を生みます。親王が皇太子になってまもなく、1167年、清盛は50歳で従一位太政大臣になりました。武家出身でありながら、全官職中最高位で「天皇の師範」と規定される太政大臣にまで清盛は登りつめたのです。

 清盛は3ヶ月で太政大臣を退き、翌1168年、病を理由に出家。病はたちどころに癒え、出家後も平家一門の繁栄は止まりません。
 嫡男重盛(しげもり)は内大臣左大将、次男宗盛(むねもり)は中納言右大将、三男知盛(とももり)は三位の中将、嫡孫維盛(これもり)は四位の少将。一門の公卿は全部で16人。殿上人は30余人。諸国の受領、衛府の役人、諸官など都合60余人に及び、平家の知行国は全66カ国中30余国を数えました。
 また娘徳子は高倉天皇の后となり、言仁親王(安徳天皇)を生みます。ここに平家一門の繁栄は絶頂を極めました。

 

 

(てつ)

2003.2.4 更新
2003.6.20 更新
2019.9.3 更新

参考文献

熊野の梛(ナギ)の葉