■ 熊野の説話 |
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◆ 後白河院、熊野詣の装束のまま平清盛を見舞うこと |
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仁安3年(1168年)2月、平清盛が病に倒れ、10度目の熊野詣から戻る途中であった後白河院は、日程を早めて熊野詣の装束のまま六波羅の清盛の屋敷に見舞いに駆けつけました。 ここでは、そのことを記した公家の日記を2つご紹介します。現代語訳したかったのですが、漢文は不得手でほとんどわかりません。わからない箇所は原文のままで、わかりそうな箇所だけ訳しました。訳した箇所も間違っているかもしれません。ご教示いただけたら嬉しいです。 ○九条兼実の日記『玉葉(ぎょくよう)』の仁安3年2月15日の条より。 15日戊申、晴、参東宮。今日、上皇がお帰りになられた。明日のことと聞いていたが、突然なお帰りであった。相国(※平清盛※)危急によるものか。すぐに密かに六波羅第(※平氏一門の邸宅※)に行かれた、云々。
○平信範(たいらののぶのり)の日記『兵範記(へいはんき/ひょうはんき)』の仁安3年2月15日の条より。 15日戊申、早朝に参女御殿。上皇は昨夕和泉国の厩戸の辺で御宿泊、今日直ちに入洛するだろう、夕方になりそうだ、云々。(※中略※) 申の刻(※午後4時頃の前後約1時間※)、上皇がすでに御入洛、云々。右兵衛(※平時忠※)奉仰急速有召、すぐに馳せ参じ、于時御于六波羅亭、道から直接に行かれて臨まれた。御浄衣等を改めず、云々。依御使参殿下、 大赦が行われるということだ。帰参の間に七条殿御所に還御。(※下略※)
2月16日に京に帰る予定であったのを、1日早く駆けつけ、熊野詣の浄衣のまま、清盛を見舞った後白河院。 (てつ) 2012.9.3 UP ◆参考文献
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