み熊野ねっと 熊野の深みへ

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後嵯峨上皇の熊野御幸

謡曲「巻絹」の元となる話

後嵯峨天皇像(宮内庁蔵『天子摂関御影』より)

 後鳥羽上皇の承久の乱の敗北により院政政権は崩壊し、熊野御幸も終演に向かいます。
 承久の乱後は、わずかに後嵯峨上皇(1220~1272)が2回、亀山上皇が1回詣でているのみです。

 後嵯峨上皇は1242年に23歳で即位。4年後の1246年に第一皇子(後深草天皇、当時4歳)に譲位し、院政を開始しますが、その院政は鎌倉幕府の制約を受けました。

 1252年には、鎌倉幕府に請われ、第二皇子宗尊親王(むねたかしんのう)を将軍として鎌倉に送り、これが初めての皇族将軍となりました。
 1258年に後深草天皇から第三皇子(亀山天皇)に譲位させ、それがのちの南北朝の対立を生みます。

 さて、『沙石集』という説話集(1283年成立、無住法師作)に収められた後嵯峨上皇の熊野御幸のときのお話。

 後嵯峨法皇が御熊野詣したとき、伊勢国の人夫で、本宮音無川という所で、梅の花が盛りであるのを見て、歌を詠んだ者があった。

音無に咲きはじめけむ梅の花 匂はざりせばいかでか知らまし

(音無の里で音もなく咲き始めた梅の花、匂わなかったならばどうして知ることができようか)

 男の歌は、まことに秀歌である。この歌が御下向のときに法皇のお耳に自然に入って、北面の下郎に仰せつけられた。北面の者は馬であちこち廻って、「本宮で歌を詠んだ男はどれか」と問うと、「これが、その男です」と、傍の人が申し上げたので、北面の者はその男に「仰せである。参上せよ」と言った、そのご返事に、

花ならばをりてぞ人の問ふべきに なりさがりたるみこそつらけれ

(花ならば手折って人は鑑賞するであろうが、実になって顧みられないのはつらいなあ。身分の高い者であれば馬を降りて人は問うだろうが、身分の低い身はつらいなあ)

 さて、返事には及ばず、恥じるべきところを恥じもせずに馬より降りて、男を連れて参上した。法皇は事の子細をお聞きになって、お感じになることがあって、「どんな事でも望みを申せ」と仰せくださる。「言う甲斐なき身でございますので、どのような望みを申し上げることができましょうか」と申し上げたけれども、「何か身分に見合う望みはないだろうか」と仰せくださったので、「母を養うほどの御恩を望みます」と申し上げたところ、百姓であるので、「彼の所帯は公事(賦役)を一切免除する。永代、この約束を違えぬように」との御下文をお与えになったのは、格別の報賞であった。百姓の子であったけれども、寺で歌の道を学んだのだと、人は申したという。

 身分の低い者が本宮音無川のほとりで梅の花を見てすばらしい歌を詠み、それにより報賞を得たというお話。
 このお話を題材のひとつにして謡曲「巻絹」が作られました。

(てつ)

2004.9.26 UP

参考文献