増基法師(ぞうきほうし、生没年未詳)。平安中期の歌僧。中古三十六歌仙のひとり。
増基法師の作と伝えられる紀行文『いほぬし(増基法師家集)』には、京都から中辺路を経て本宮に参詣し、本宮から新宮の御船島を経、伊勢路を歩き、花の窟を経て京都に帰る熊野詣の紀行文が記されています。後拾遺集初出。
なお『大和物語』や『後撰集』にみえる増基法師とは別人のようです。
・後拾遺和歌集
1.熊野詣の道中、住吉にて詠んだ歌。
熊野へまい(ゐ)り侍りけるに、住吉にて経供養すとてよみ侍りける /増基法師
ときかけつころもの玉は住の江の神さびにける松のこずゑに
(第十八 雑四 1068)
住吉の神に経の読誦を奉って、住の江の神々しい松の梢に衣の裏の宝珠の緒を解いて掛けたことだ。
『いほぬし』には「経など読む声して、人知れずかく思ふ」とある。
「とき」に「解き」と「説き」とを掛ける。
2.本宮で詠んだ歌。
熊野にまい(ゐ)りてあす出(い)でなんとし侍りけるに、人々、しばしは候(さぶら)ひなむや、神も許したまはじなどいひ侍りけるほどに、音無川のほとりに頭(かしら)白き烏(からす)の侍りけれはよめる /増基法師
山がらすかしらも白くなりにけり わがかへるべきときや来ぬらん
(第十八 雑四 1076)
明日、熊野を出ようというときに、人々がもうしばらくいてくださいませんか、神様もきっと許しませんよなどと言ってひきとめようとしたが、そのとき、頭の白いカラスを音無川のほとりに見て詠んだ歌。
山カラスの頭も白くなった。私が故郷に帰れるときが来たのだろう。
燕丹子や事文類聚に見える烏の頭白く馬角を生ずる故事(秦の始皇帝が燕の太子丹を人質とし、カラスの頭が白くなり、馬に角が生えたら、故国に帰してやろうと言ったが、その通りのありえないはずのことが起こり、やむなく燕丹を故国に帰した)を踏まえての歌。
・新続古今和歌集
熊野にまうでける道にて/増基法師
いとどしくなげかしき世を神無月 旅の空にもふる時雨(しぐれ)かな
(巻第十 羇旅歌 929)
ますますはげしく嘆かわしい世であることよ。神無月の旅の途中でも時は経ち、時雨は降るのだなあ。
「ふる」に「経る」と「降る」とを掛ける。
・新千載和歌集
四十九院の岩屋のもとにゐたる夜、雪のいみじうふり風のはげしく吹き侍りければよめる/増基法師
浦風にわが苔衣ほしわびて身にふりつもる夜はの雪かな
浦風に法衣を干すこともしかねて、我が身に夜中の雪が降り積もることだ。
「四十九院の岩屋」は『いほぬし』の記述からすると、今の熊野市の海辺近くにあったものと思われる。
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『いほぬし』にある熊野関連の歌については、『いほぬし』をご覧ください。
(てつ)
2003.5.6 UP
◆ 参考文献
新日本古典文学大系8『後拾遺和歌集』岩波書店
『本宮町史 文化財篇・古代中世史料篇』
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