音無
音無川(おとなしがわ)
音無川は、和歌山県本宮町を流れ、熊野本宮大社旧社地近くで熊野川に注ぐ熊野川の一支流。
熊野本宮大社は現在は高台にありますが、もともとは熊野川・音無川・岩田川の三つの川の合流点にある中洲に鎮座していました。
現在地に遷座したのは古いことではなく、明治24年(1891)のことです。明治22年(1889年)の大水害により被害を受けて近くの高台に遷座しました。
かつての本宮大社は、熊野川と音無川に挟まれ、さながら大河に浮かぶ小島のようであったといわれます。熊野川は別名、尼連禅河(にれんぜんが:ガンジス川の支流、ネーランジャナー川。河畔の菩提樹の下で釈迦が悟りを開いたと伝えられる)といい、音無川は別名、密河といい、2つの川の間の中洲は新島ともいったそうです。
中洲にある本宮へ入るには、音無川を徒歩で渡らなければなりません。
江戸時代まで音無川には橋が架けられず、道者は音無川を草鞋を濡らして徒渉しなければなりませんでした。
これを「濡藁沓(ぬれわろうづ)の入堂」といい、道者は音無川の流れに足を踏み入れ、冷たい水に身と心を清めてからでなければ、本宮の神域に入ることはできませんでした。
精進潔斎を眼目としていた熊野詣の道中において、音無川は本宮に臨む最後の垢離場にあたります。
道者は音無川を徒渉し、足下を濡らして宝前に額づき、夜になってあらためて参拝奉幣するのが作法でした。
音無川は熊野本宮の聖なる入り口としてかつては広く世に知られた川だったのです。
『拾遺和歌集』
しのびて懸想し侍ける女のもとに遣はしける/元輔
音無の川とぞついに流れける 言はで物思ふ人の涙は
(巻第十二 恋二 750)
(訳)音無の川となってとうとう流れてしまった。口にすることもなく恋に物思う人の涙は。「音無の川」という名が音を立てないことを連想させる。
三十六歌仙のひとり、清原元輔(きよはらのもとすけ。908~990)の歌。
清原元輔は清少納言の父で、娘の清少納言も『枕草子』五九段に音無川のことを以下のように記しています(現代語訳てつ)。
河は、飛鳥川、淵瀬も定めなく、今後どうなるのだろうかと趣がある。大井河。音無川。水無瀬川。
清少納言が熊野を詣でてはいないでしょうから、音無川については話に聞いたことがあるだけだと思いますが。
『金葉和歌集』より
卯の花をよめる/源盛清
卯の花を音無河の波かとてねたくも折らで過(すぎ)にけるかな
(補遺歌 671)
(訳)卯の花を音をたてずに流れる音無川の波かと思って、腹立たしいことに折らずに通り過ぎてしまったよ。
「音無し(音がない)」を懸詞とする歌。卯の花は、その白さから波に喩えられる。
『続詞花和歌集』より
熊野へまゐりける女、をとなし川よりかへされたてまつりてなくなくよみ侍りける
音なしの川のながれは浅けれど つみの深きにえこそわたらね
(訳)音無の川の流れは浅いけれど、罪の深さに渡ることができないのだ。
罪を犯した者には渡ることができない川でした。本宮を目の前にして泣く泣く引き返さなければならなかったその女性が犯した罪とはいったい何だったのでしょうか。熊野詣の道中は精進潔斎に努めなければならず、道中にしてはならない禁忌がありました。彼女は何らかの禁忌を破ってしまったのかもしれません。
『続詞花和歌集(しょくしかわかしゅう)』は平安末期の私撰集。撰者は藤原清輔。『詞花和歌集』に継ぐ第七勅撰集となるところを、下命者である二条天皇の崩御により実現しなかった。
『新古今和歌集』より
都を出でて久しく修行し侍(はべり)けるに、問ふべき人の問はず侍ければ、熊野よりつかはしける/大僧正行尊
わくらばになどかは人の問はざらむ を〈お〉となし河に住む身なりとも
(巻第十七 雑歌中 1662)
(訳)どうしてたまには便りをくれないのだろう。いくら私が音無川の近くに住む身であるとしても。
「おとなし」は「音無川」と音信が無いの意の「音なし」の掛詞。
『続古今和歌集』より
題しらず/藤原忠資朝臣
名のみして岩波たかく聞ゆなり おとなし川の五月雨(さみだれ)の頃
(訳)「音無」というのは名ばかりで岩に波がぶつかる音が高く聞こえるのだなあ。五月雨の頃の音無川は。
『続拾遺和歌集』より
君こふと人しれねはや 紀の国の音無川の音だにもせぬ
(訳)私があなたを恋しく思っていることを人が・・・(「しれねはや」の部分の訳がわかりません。どなたかご教示を)。紀の国の音無川の音さえもしない。
紀貫之(きのつらゆき)の歌。紀貫之は『古今集』の撰者の中心人物。三十六歌仙のひとり。『土左日記』の作者。
『夫木抄』より
はるばるとさかしき峯を分け過ぎて 音無川を今日見つるかな
(訳)遥々と険しい峯を分け過ぎて音無川を今日見たことだ。
28回もの熊野御幸を行った後鳥羽院の歌。音無川に出会った感動を詠んだ。
『夫木抄(ふぼくしょう)』は鎌倉後期の私撰和歌集 。撰者は藤原長清。
音無の里
音無の里はおそらく音無川と熊野川の合流地点近くにあった里。おそらく今の和歌山県田辺市本宮町本宮の辺り。
『拾遺和歌集』より
恋(こひ)わびぬ音(ね)をだに泣かむ声立てていづこなるらん音無の里
(巻第十二 恋二 749)
(訳)もう恋の思いを耐え忍ぶ気力も失せてしまった。せめて声を立てて泣こう。どこにあるのだろうか、音が聞こえないという「音無の里」は。
「音無し(音がない)」を懸詞とする歌。声に出して泣くこともできない忍びの恋の歌。
「音無」の恋、口に出すことができない恋とは、どんな恋なのでしょうか。想う相手が既婚者であったり、身分違いであったりということでしょうか。
音無の滝
かつて音無川にあった滝だという説があります。現在、それらしき滝は見当たりません。
『詞花和歌集』より
家に歌合し侍りけるよめる/中納言俊忠
恋ひわびてひとり伏せ屋によもすがら落つるなみだや を〈お〉となしの滝
(巻第七 恋上 232)
(訳)恋しいのにどうしようもなくてひとり伏して寝ている粗末な家に一晩中流れる涙こそが、音無の滝なのではないか。
これも「音無し(音がない)」を懸詞とする歌。
清少納言の『枕草子』五八段には、
滝は、音なしの滝。布留の滝は、法皇の御覧においでになったのがすばらしい。那智の滝は熊野にあると聞くのが趣がある。とどろきの滝はどんなにかしがましく、おそろしいのだろう。
と、数ある滝のなかで「音無の滝」の名を一番に挙げています(現代語訳てつ)。もしかしたら京近くに音無の滝があったのかもしれません。
音無の山
音無の山とは音無川が流れる周囲の山々のことでしょう。
『伊勢集』より
音無の山の下ゆくさゝら波 あなかま 我もおもふ心あり
(409)
(訳)音無の山の木々の下をゆく音無川の小さな波。しっ、静かに。私もあの人を思う心はありますが、噂を立てられたら困るのです。
「あなかま」は静かにと制する語。
『伊勢集』は三十六歌仙のひとり伊勢の家集。
(てつ)
2003.3.4 UP
2003.3.10 更新
2003.4.19 更新
2003.5.3 更新
2003.11.16 更新
2020.4.20 更新
2022.11.5 更新
2023.1.25 更新
2023.3.23 更新
参考文献
- 新日本古典文学大系7『拾遺和歌集』 岩波書店
- 新日本古典文学大系8『後拾遺和歌集』 岩波書店
- 新日本古典文学大系9『金葉和歌集 詞花和歌集』 岩波書店
- 新日本古典文学大系25『枕草子』 岩波書店
- 新日本古典文学大系28 『平安私家集』 岩波書店
- くまの文庫7『熊野中辺路 詩歌』熊野中辺路刊行会
※歌番号のないものは『熊野中辺路 詩歌』からの孫引き