後拾遺和歌集の熊野関連の歌
『後拾遺和歌集』は、第4番目の勅撰和歌集です。
承暦2年(1078)に下された白河天皇の勅撰により藤原通俊(みちとし、1047~1099)が撰集し、応徳3年(1086)に成立しました。
20巻1218首のうち、詞書まで含めて「熊野」が登場する歌は9首。そのうち歌の本文に「熊野」が登場するのは1首。
1.花山法皇の歌
熊野の道にて、御心地例ならずおぼされけるに、海士(あま)の塩焼きけるを御覧じて /花山院御製
旅の空よはの煙(けぶり)とのぼりなば あまの藻塩火(もしほび)たくかとや見ん
(巻第九 羇旅 503)
(訳)この旅の途中で死んで、火葬の煙となって立ちのぼったならば、人々は海士が藻塩の火を焚いているかと見るだろうか。
藤原兼家の策謀により19歳の若さで出家させられ、帝位を追われた花山法皇が熊野に向かった道中に詠んだ歌。
2.懐円法師(かいえんほうし、生没年未詳)の歌
熊野へ参り侍りける道にて吹上の浜を見て /懐円法師
都にて吹上の浜を人とはば 今日見る許(ばかり)いかゞ語らん
(巻第九 羇旅 504)
(訳)都でこの吹上の浜のことを人が尋ねたならば、今日見ているこのすばらしさの程をどう語ろうか。
熊野詣の道中に詠んだ歌。
3.少輔(しょうゆう、生没年未詳、藤原兼房の娘)の歌
熊野へ参る道にて月を見てよめる /少輔
山の端にさはるかとこそ思ひしか 峰にてもなを(ほ)月ぞ待たるゝ
(巻第九 羇旅 505)
(訳)今までは山の端に邪魔されて月の出が遅いのかと思っていたが、峰にいてもやはり月が待たれることだ。
熊野詣の道中に詠んだ歌。
4.源信宗(みなもとののぶむね、?~1097)の歌
熊野に詣で侍りけるに、小一条院の通ひたまひける難波といふ所に泊りて、昔を思(おもひ)でててよめる /源信宗朝臣
いにしへになにはのことも変(かは)らねど涙のかゝる旅はなかりき
(巻第十 哀傷 595)
(訳)昔とは何も難波の様子は変わらないが、涙が溢れかかるこのような旅は今までなかったことだ。
熊野詣の道、難波で、亡き父・小一条院(三条天皇第一皇子)を偲んでに詠んだ歌。
「なには」に「難波」と「何」とを掛ける。
「かかる」に「懸かる」と「斯かる」とを掛ける。
「たび」に「旅」と「度」とを掛ける。
5.中古三十六歌仙のひとり、道命阿闍梨(どうみょうあじゃり、974~1020)の歌
熊野へまい(ゐ)るとて、人の許(もと)に言ひつかはしける /道命法師
忘るなよ忘ると聞かば み熊野の浦のはまゆふうらみかさねん
(巻第十五 雑一 885)
(訳)忘れないでください。もし忘れたと聞いたならば、熊野の浦の浜木綿のように重ね重ね恨みますよ。
道命阿闍梨が熊野へ詣でるときに親しい知人に送ったと思われる歌。
「み熊野の浦の浜木綿」は「かさねん」を起こす序詞として用いられていますが、この勅撰集の序にも「み熊野の浦の浜木綿世を重ね」という表現があります。
浜木綿は、ハマオモトのこと。海辺に生えるヒガンバナ科の多年草。花が、木綿(ゆう。コウゾの皮の繊維で作った白い布)でできているかのように見えることから浜木綿(はまゆう)というそうです。幾重にも葉が重なっているので、「幾重なる」「百重なる」などを起こす序詞となりました。
6.兼経法師(けんけいほうし、生没年未詳、伝不詳)の歌
花山院の御供に熊野へまい(ゐ)り侍りける道に、住吉にてよみ侍りける /兼経法師
住吉の浦風いたく吹きぬらし 岸うつ浪の声しきるなり
(巻第十八 雑四 1064)
(訳)住吉の浦風がひどく吹いたらしい。岸打つ波の声がしきりに聞こえることだ。
花山院殿上法師と見られる兼経法師が花山院の御供をして熊野詣の道中、住吉にて詠んだ歌。
7.中古三十六歌仙のひとり、増基法師(ぞうきほうし、生没年未詳)の歌
熊野へまい(ゐ)り侍りけるに、住吉にて経供養すとてよみ侍りける /増基法師
ときかけつころもの玉は住の江の神さびにける松のこずゑに
(第十八 雑四 1068)
(訳)住吉の神に経の読誦を奉って、住の江の神々しい松の梢に衣の裏の宝珠の緒を解いて掛けたことだ。
増基法師(ぞうきほうし、生没年未詳)が熊野詣の道中、住吉にて詠んだ歌。
『増基法師集』には「経など読む声して、人知れずかく思ふ」とある。
「とき」に「解き」と「説き」とを掛ける。
8.道命阿闍梨の歌、2首め
錦の浦といふ所にて/道命法師
名に高き錦の浦をきてみればかづかぬあまは少なかりけり
(巻第十八 雑四 1075)
(訳)名高い錦の浦に来て見ると、褒美を与えられない海人は少なかったよ。水中に潜らない海人が少ないように。
錦の浦は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の丹敷浦(那智浦ともいう)。錦の浦を錦衣を見立てて詠んだ歌。
「浦」に「裏」を掛ける。
「きて」に「来て」と「着て」を掛ける。
「かづかぬ」に「被かぬ」と「潜かぬ」を掛ける。
「被く」は、貴人から褒美として賜った衣類などを肩にかけること。
「潜く」は、水中に潜ること。
「海人」に「尼」を掛けるか。
9.増基法師、2首め
熊野にまい(ゐ)りてあす出(い)でなんとし侍りけるに、人々、しばしは候(さぶら)ひなむや、神も許したまはじなどいひ侍りけるほどに、音無川のほとりに頭(かしら)白き烏(からす)の侍りけれはよめる /増基法師
山がらすかしらも白くなりにけり わがかへるべきときや来ぬらん
(第十八 雑四 1076)
(訳)明日、熊野を出ようというときに、人々がもうしばらくいてくださいませんか、神様もきっと許しませんよなどと言ってひきとめようとしたが、そのとき、頭の白いカラスを音無川のほとりに見て詠んだ歌。
山カラスの頭も白くなった。私が故郷に帰れるときが来たのだろう。
燕丹子や事文類聚に見える烏の頭白く馬角を生ずる故事(秦の始皇帝が燕の太子丹を人質とし、カラスの頭が白くなり、馬に角が生えたら、故国に帰してやろうと言ったが、その通りのありえないはずのことが起こり、やむなく燕丹を故国に帰した)を踏まえての歌。
『後拾遺和歌集』から見つけられた熊野関連の歌は以上の8首。もしかしたら見落としがあるのかもしれませんので、もし他にありましたらご教示ください。
勅撰和歌集とは
天皇や上皇の命令によりまとめられた和歌集のことをいいます。
10世紀初めに成立した最初の『古今和歌集』から15世紀前半の『新続古今和歌集』まで21集があります。順に並べると下記の通り。
- 古今和歌集 (醍醐天皇)
- 後撰和歌集 (村上天皇)
- 拾遺和歌集 (花山院)
- 後拾遺和歌集 (白河天皇)
- 金葉和歌集 (白河院)
- 詞花和歌集 (崇徳院)
- 千載和歌集(後白河院)
- 新古今和歌集 (後鳥羽院)
- 新勅撰和歌集(後堀河天皇)
- 続後撰和歌集 (後嵯峨院 )
- 続古今和歌集(後嵯峨院)
- 続拾遺和歌集 (亀山院)
- 新後撰和歌集 (後宇多院)
- 玉葉和歌集(伏見院)
- 続千載和歌集 (後宇多院)
- 続後拾遺和歌集 (後醍醐天皇)
- 風雅和歌集 (花園院)
- 新千載和歌集 (後光厳院)
- 新拾遺和歌集 (後光厳院)
- 新後拾遺和歌集 (後円融院)
- 新続古今和歌集 (後花園天皇)
1~3を三代集、1~8を八代集、9~21を十三代集、全部をまとめて二十一代集といいます。
(てつ)
2003.4.16 UP
2003.5.27 更新
2020.2.22 更新
参考文献
- 新日本古典文学大系8『後拾遺和歌集』 岩波書店