名古屋の町外れに広大な神域をもつ伝式内社
撮影2005.11.5
交通:自動車でないと不便なところにあります。
この社殿は昭和45年の集中豪雨により崩壊したため、昭和47年に再建されたものだそうです。コンクリート製。
なかなか堂々としたお宮さんです。
ここまで来るのに、長い石段を登ってきます。里山といってもいい、なだらかな小山の上にあります。
境内には針葉樹・広葉樹が、街中にしてはかなり多く植えられています。
他に車での登坂路も有り。
(このビニール製の注連縄は、最近どこにもありますけど、ちょっとね…。日本人の心のふるさとはやっぱり藁でないと…。
味気ないというより汚い感じ。雨で濡れてるのはもう目を背けてしまう。 m(_ _)m ここのお宮さんの関係者様偉そうなコト言ってスミマセン)
この地名の「神ノ倉」はもちろん熊野の神様のこと。
他に、「熊の前」の地名も有り。昔は「熊野山」とも呼ばれていたらしい。
由緒書にある扇川はこの下を流れる小さな川。
「扇を川に落とす…」とは、また雅な。
扇といえば那智山の祭礼「扇祭り」を思い出します。
また大和・猿沢の池の采女のお祭りにも花扇を水面に浮かべる儀式がありますね。
どんなお祭りだったのでしょう。
それにしても蒙古襲来の時代からここにあったと言うことでしょうか。
しかし元の社殿が無くなってしまったのは残念です。
社殿の方から下を見下ろしたところ
春には桜の名所だそうです。
比較的新しい玉垣がズラーと並んでいます。
この付近を30年前に通りましたが、その時は「ここが名古屋?」というほどの山の中でした。
今は新興住宅地になって、ひっきりなしに車が通っています。
あ、あの「きんさんぎんさん」もこのお近くのお生まれ。
今なら車で10分程度かな。小さい頃のお二人もこの近所で遊んだんでしょうかね。
そこの地名が「鹿山」。鹿が住んでいたんでしょうか。
さぞや昔は長閑な山村だったことでしょう。
まだ子どものきんさん・ぎんさんが、ここの縁日で仲良く遊んでいるのを想像すると… (^^)♪
あ、余談ついでにこの私、きんさん宅から約10分のところに住んでいます。
ぎんさん、まだ有名になる前にチラチラ見たことあり。
乳母車をギコギコ押しながら、近所を散歩したましたね。
小学生よりも小っちゃなおばあさんでしたよ。
登山口のような入り口。
ここの注連縄はちゃんと藁縄だ。こうでなくっちゃね!
こちとら日本人でぃ。チャラチャラした伴天連式の変なのぶら下げるなぃ。 コルァ---。(--)
入り口。右側にある祠には、古いお地蔵様が。
お地蔵さんには「右あすけみち」とありました。
三州足助(さんしゅう・あすけ)への街道だったんですね。
足助は民俗学者宮本常一さんの「塩の道」で有名なところです。
今ここからだと、車で2時間も掛からないところですが、昔はいったいどれだけ掛かったのでしょう。
野を越え山を越え、今からは考えられないほどの「旅」だったのではないでしょうか。
往時の旅人が、道中の無事をこのお地蔵さんにお祈りしたことでしょう。
この前を牛や馬に載せた塩や海産物、いろんな物資が三河や美濃、信濃方面へ運ばれたと思うと感慨深いものがあります。
ボーと佇み、往時を想像するのもまた神社仏閣巡りの愉しみであります。
________________________________
取材後記:
先日漫画喫茶で雑誌をぱらぱらやっていて、インドのタミル地方のしめ縄のようなものを見ました。そこの住人が締めているのがいわゆる「越中○○○シ」。
言語学者の大野晋さんが唱えておられる日本語のルーツ(の一つ)は、はるかインド亜大陸という説も、この写真を見ると「なるほど!」と肯けます。
そのしめ縄は、日本のような立派なものではなく、藁を捻って作っただけの素朴なものでした。
それはちょうど、てつ様が「熊野古道の歩き方」で書いておられる市野々王子のお杉屋(おすぎや)の親戚のような感じの構造物に掛けられていました。
はるかな時間と空間を経て、旅をしてきた私達の精神遺産。大切にしたいと思います。
なにぶん素人の勝手なレポートですので、事実と違っていたりすることも多々あるかと思います。
ごらんいただいた皆様のご意見をお待ちしております。
(儀平の饅頭食べ隊さん)
No.472
(てつによる追記)
徳重熊野社は古くは「イブクマノ神社」と呼ばれており、弘化四年(1847年)の鳴海村絵図には「伊吹の神社 クマノ社」とあり、『延喜式』神名帳(927年)の愛智郡伊福神社(イフノ)ではないかという説がある。
伊福神社は長らく失われた神社とされており、この説には賛同できないのだけど、何の根拠もなくそういう話が出てくるとも思えない。
2005.11.21 UP
2020.1.17 更新