牛川熊野社の約1キロ北に位置します。
豊川市から中世時代は河川敷にあたる平地を自電車で探索しましたが、微高地に特に大きな樹木に囲まれた一画を発見し、人に尋ねるまでもなく到達できました。
しかし周囲は、宅地化が進み、牛川熊野社までの間も工事中であり、数年もすると昔の地図では歩けない町になっているのでしょうね。すこし寂しい思いです。
さて、神社名の冠である「浪ノ上」は、海ではなく豊川(古代名称:飽海〔あくみ〕川)を指すものと思います。
私が参考にしている「中世鎌倉古道」(尾藤卓男著)は、鎌倉街道が豊川を渡る場所としています。
また江戸時代・東海道の脇街道にあたる「姫街道」は、約2キロ北を通過しています。
古来から大河を渡る条件(浅瀬、当地にいたる街道経路の容易さ)に恵まれていた場所ということになります。
拝殿から見た本殿と「熊野社」の扁額です。
最近、新築の拝殿・本殿の場合、扁額は内部にある事例を見るようになりました。
御由緒
(昭和48年3月発行 豊橋市史No.1から引用)
市史のためか御神体など具体的な記述がなく、牛川熊野社と同様に戦国時代以前の創立と推定されるとの解説のみでした。
参考
後述の「中世鎌倉古道」(尾藤卓男著)は、棟札によると、大宝2年(702)熊野12社大権宮 名記江村と見え、裏面に行基菩薩建立とあると、しながら、「八名郡誌」によると古社であることは疑いないが、棟札は後世の作として疑問視しているにとどめる。従い、最初の行の内容になります。
(河合さん)
No.904
2009.3.10 UP
2022.3.27 更新
参考文献
- 『豊橋市史』