熊野権現を中心に祀る関東有数の修験の霊場
小田急線本厚木駅下車、神奈中バスにて上三増方面乗車一本松バス停下車徒歩20分ほど。
途中中津川大橋を渡るが、中津川の対岸に八菅山、丹沢山系が見渡せる。
八菅神社は愛川町の南東に位置する八菅山上にある。
かっては八菅山七社大権現といわれ、その別当寺光勝寺とともにあった。
坂道を登ってゆくと鳥居、鐘楼があり、そこから約300段の急な石段を登りつめたところに社殿が建つ。
途中にはスジダイの林。
本社は覆殿一棟の内にあり、中央を証誠殿、その左右に各三社あり、左方は玉函殿、金峯殿、誉田殿、右方は妙高殿、妙理殿、走湯殿が配置され七所権現と称した。
祭神 | 本地仏 | |
証誠殿(熊野権現) | 国常立尊 | 阿弥陀如来 |
金峰殿(蔵王権現) | 金山彦命 | 弥勒菩薩 |
玉函殿(箱根権現) | 伊弉冊尊 | 阿弥陀如来 |
誉田殿(八幡大菩薩) | 誉田別尊 | 阿弥陀如来 |
妙高殿(山王権現) | 大己貴命 | 薬師如来 |
妙理殿(白山権現) | 伊弉諾尊 | 十一面観音 |
走湯殿(伊豆権現) | 天忍穂耳尊 | 十一面観音 |
八菅神社覆殿
八菅神社証誠殿
由来 大宝三年(703)役小角、日本武尊の御神殿を慕い入山修法された。
その折天空より玉幡1流山中に降り、白菅8基地中より惣然として生じ、よりて八菅寺と称した。
和銅二年(709)僧行基は勅命を受け神体及び本地仏を彫刻し一山の伽藍を建立したといわれる。
鎌倉時代の上期、寛元元年、相模国愛甲庄に「熊野山領」が設定され、藤原清俊が地頭の職に補せられたとある。
その後七社権現の別当寺であった光勝寺は、天台宗の寺で京都の聖護院の直末であるとともに、本山派修験の相模における拠点でもあった。
八菅山内には光勝寺に属する五十余の修験の院、坊があった。
明治維新後、神仏分離により八菅神社が残り光勝寺は廃寺となり、修験者は帰農した。
「愛川町史」「新編相模風土記稿」を参考にしました。
(TATSUさん)
No.993
2009.7.1 UP
2020.8.7 更新
参考文献
- 『愛川町史』
- 『新編相模風土記稿』