平村の熊野神社
川崎市北部は昭和四十年代から「東急多摩田園都市」計画などの計画的宅地開発が行われ、東京のベッドタウンとして都市化の著しい地域である。そんな中でも平地区は、宅地化著しいものの現在も少しながら田畑の残り、農村の佇まいを感じさせる地区である。
その平地区の鎮守、白幡八幡大神は由緒ある古社として近隣に知られている。神社の栞に寄ればその由来は、康平年間に源頼義が奥羽二国征討の途上、鎌倉の八幡宮で御加護を祈願し「よく大命を完了することを得ば鎌倉より街道十里ごとに八幡祠一宇を奉祠せん」と誓約し、後に無事勅命を果たすことが出来たので、康平四年(1061)に鎌倉から丁度十里になる当地に八幡宮を奉祠したものという。其の後源頼朝が鎌倉に幕府を開いた時に先祖の事績を調べ、建久三年に荒廃していた当社を再建、源栄山を号したという。
一方江戸幕末が編した『新編武蔵風土記稿』には「八幡宮」として記載がある。これには鎌倉の右大将源頼朝が奥州の藤原泰衡を征伐する時、「此度の軍(いくさ)、利あらば鎌倉より奥州までの海道の中、十里ごとに八幡一祠を建立せん」と誓ったといい、その後戦に勝利を得たため、建久三年に誓いを守って鎌倉より奥州までの間に数ケ所の八幡を勧請し、当社は其一つである、という縁起を載せている。ここでは創建者は源頼朝になっている。
この後、東照宮(徳川家康)や台徳院(徳川秀忠)の武運長久の祈祷を行い神供免七十石餘の御朱印や銀子を賜わった事などを載せている。この本の書かれた頃には三石の免地を持っていた。
また、拝殿に「稲毛総社八幡宮の七字」を掲げていたとの記載がある。現在の社頭にも「稲毛総社白幡八幡大神」という額が掲げられており、近隣の村々五十七ヶ村、稲毛領の総鎮守であったと伝えている。
同書に「二月初の卯の日と定め、社前に於て射術の式あり。尤其形はかりなり。」とある例祭は現在も初卯祭・八幡講として有名で、五穀豊穣を祈って鳥居に藁で大蛇を作って供え、桃の木の弓で的を射る「おまとう」神事が行なわれている。
藁蛇
この白幡八幡大神に熊野神社が合祀されている。白幡八幡大神は明治六年郷社となり、大正三年に村内にあった末社の熊野神社、稲荷神社、五所神社、天満宮、神明神社、厳島神社が合併されている。
現在の祭神は玉依姫命、神功皇后、応神天皇を主祭神として、配祀神として伊奘再命、事解男命、速玉男命、天照皇太神、国常立命、倉稲魂命、日本武尊、天満大神、奥津島姫命の十二柱を祀っている。配祀神の初め三柱は熊野神社の祭神である。
この平村にあった熊野神社に関して、『新編武蔵風土記稿』では、「熊野社 村の西、字別所にあり。社地は小丘の上なり。相伝う。寿永元年草創せりと。末社は宮作りにて四尺四方、拝殿は二間に三間、本社も此内に安せり。拝殿に稲毛総社の四字を扁す。前に石階十二級ありて其の下に鳥居を建つ。例祭は九月廿一日にて、村内神明祠と隔年なり。…(中略。末社に弁財天社、稲荷社、疱瘡神社)…神主小泉信濃 本社に向って左に住す。村内八幡、神明、天神、五所、稲荷等の神職を兼務す。…近村神主の少なきゆえ、何れの村にても祭事あることに必ず信濃に託して、今の俗に用ゆる所の十二坐及び五坐の神楽を行えり。」としるしている。
神主の小泉家は白幡八幡大神の敷地に居を移しているが、今も神社をお守りしている。戦前までは国家神道の下、横浜川崎の多くの神社の差配をしていたと伝わっているが、終戦に当たって神社の制度が変わったため差配する神社の数も減ったという。とはいえ今も近隣の地区の神社を何軒もお守りされている。
記述にある神楽は「禰宜舞」として現在も伝えられており、現在は川崎市の重要習俗技芸舞に指定されている。舞の所作に神招きや神懸りの古風が見られるとともに、関東里神楽の特徴が取り入れられた独特のものとなっているという。禰宜舞は白幡八幡大神や近隣の神社の例祭の時に舞われており、初卯祭とともに有名である。
熊野神社の旧鎮座地を探してみた。
神社の方に聞いてみた所、「向丘診療所」交差点の西側の丘、平三丁目6番地付近で、そこは神主小泉家の「元屋敷」であるという。現在跡らしいものは残っていないという事であった。
現地に行ってまた地元の方に伺ってみた所、くわしい旧鎮座地を教えていただく事が出来た。そこは平三丁目6番地の丘の中腹に当たる場所だという。現在個人宅が建っているが、南面する斜面はたしかに神社があったような雰囲気がある。
『新編武蔵風土記稿』にある「別所」というのは隣村下菅生村初山との境となる辺りのことだと言い、これとも一致する。
旧鎮座地には何もないようだが、白幡八幡大神には熊野神社の遺物がいくつか残されている。まず、拝殿向って左に掲げてある絵馬に在りし日の熊野神社の風景を描いたものがある。祭礼の時を描いたのか「熊野神社」と書かれた幟が上がっている。幟には熊野神社の文字の両脇に「明治十七年 十月二十一日」という日付が入っており、絵の下に書かれている「願主 小泉氏」によってその頃に奉納された絵馬と思われる。先の『新編武蔵風土記稿』には「例祭は九月廿一日」とあるが、絵馬が描かれた明治十七年には陽暦の採用によってひと月ずれていたのだろう。
旧熊野神社図絵馬
中央下には鳥居を描き、参道の石段を経て狛犬の先に拝殿が上方に描かれている。参道には大きな松の木が茂っており、境内の周囲には社叢林らしい木立が描きこまれている。他に鳥居脇右に長い建物があり、拝殿脇左にもう一つ建物が書かれている。拝殿左の建物には鳥居左から階段が登っている。これを見る限り広い社地と施設を持つ大きな神社であったようだ。反対側には白幡八幡大神を描いた絵馬がある。
この絵馬のほかに「熊埜神社」と記した額がある。変体漢字で書かれていて読みづらいが、熊野神社の額であったものと思われる。
旧熊野神社扁額
また、現在白幡八幡大神の本殿(内殿)になっている社はかつて熊野神社の本殿だったものだという。近隣の他の神社にはない、大きくて立派な本殿であるという。これらの遺物を見ると相当の規模を持つ神社であったことが伺え、神社明細帳などを見ても御嶽神社・天満社・厳島神社などの境内社があったことが分かる。
しかし明治六年の資料では郷社扱いの八幡大神に対して熊野は末社として記載されており、結局大正三年には白幡八幡大神に合祀されてしまった。
白幡八幡大神の近くに薬王庵というお堂がある。この堂には稲毛領(現在の川崎北部を中心とした地域)内の観音菩薩を巡る准西国稲毛観音三十三所霊場の巡拝成就供養塔が立っている。
准西国稲毛観音三十三所霊場は、宝暦十三年(1763)平地区に住んでいた山田平七という人物が発願して作った霊場である。平七は痰咳の病の治癒を願って観音への信仰を厚くし、ある時西国三十三ヶ所観音霊場の順拝へ出発した。その際、熊野に参詣して、無事帰国のあかつきには三十三体の観音像を建立する、という誓願を立てたという。
無事帰国の後も薬王庵の本尊にも誓願し、秩父三十三所へ参るなど信仰を続けたが、なかなか三十三体もの観音像を建立するのは難しく、長く果たせずにいた。せめて西国の巡拝をもう一度と思うものの病も重くなったので果たせず、代わりに西国になぞらえた霊場を作ることを思い立つ。
そこで、あらためて誓願を立てて近郷の観音を祀る寺院や堂を集め、自ら巡礼歌を作り上げ、宝暦十三年、ついに准西国稲毛三十三所観音霊場を開く。
平薬王庵
平七はこの観音霊場を作る際、薬王庵と平の熊野神社に誓願を立てなおしたという。紀州熊野に誓願した観音三十三体建立の誓願は果たせなかったものの、准西国稲毛三十三所観音霊場の創立は、地元・平の熊野神社の加護で見事に完成させることができたのである。
平七は最後に薬王庵に熊野那智山の観音の写しとして如意輪観音を納め、境内には誓願成就の記念として供養塔を建てた。また熊野神社に関しては、紀州熊野から勧請されて六百年の後、准西国稲毛霊場の「先達」となって下さった、と巡礼案内の中で称えており、巡礼の途中に参ることを勧めている。
平七は霊場完成三年後に亡くなったが、二百数十余年経た今日でもこの霊場の巡拝は続けられており、午年の春には全霊場がご開帳を行い、多くの人で賑わう。
平薬王庵如意輪石仏
現在熊野神社はなくなってしまったが、今も続くこの霊場の成立には平七と彼の熊野信仰が大きく寄与したことを忘れないで欲しいものである。
ちなみに『新編武蔵風土記稿』の八幡宮の縁起の中に「鎌倉より奥州までの海道」の説明として、「鎌倉の古海道は今隣村土橋村の内に其跡遺れり」とある。これは土橋村の項に書かれている「古跡鞍掛松」「茶筅松」のことで、「右大将源頼朝鎌倉より此地を経歴の時、乗鞍を此松の枝へ掛けられしと…此所鎌倉古海道の名残…」とか「頼朝此松の葉を以て茶筅に用い、其用はてて後此所へ棄てられしか、根生いて大木となりしといへり…」などとある。土橋村の村名の由来も「右大将頼朝此地を過給いし時、新たに土橋を架けしめしことありと」とある。現在は宅地の造成と東名川崎インターの建設で見る影もないがインター入り口とその東側の辺りに松の木と土橋があったという。
ちなみにこの松、宅地造成で倒そうとした際死傷者が出たという話を地元の方に聴いた事があるが本当だろうか。
鎌倉街道のルートは諸説あり枝道も多いがこの道は荏田で分岐して有馬村鷺沼、土橋村を通り、平を経て狛江方面へ行くルートのようだ。鎌倉古道の道筋には熊野社や八幡社が多く勧請されていたり、五輪塔や「板碑」という中世の墓碑が多く所在したり、鎌倉武士の伝説が多く残されているといわれている。鞍掛松の下にも八幡宮の石祠があったが、現在は枡形の日本民家園に移されている。また、平に隣接する土橋や初山でもたくさんの板碑が出土している。
平の熊野神社は回りからは古代中世の香りが漂ってくるようである。
最後になりましたが、いろいろ教えていただいた白幡八幡大神、平の方々にはこの場を借りて重ねて御礼申し上げます。ありがとうございました。
(日照院さん)
No.762
2007.9.22 UP
2020.8.13 更新
参考文献
- 『新編武蔵風土記稿』