(旧・長崎県壱岐郡勝本町立石南触583-1)
現在、壱岐郡で唯一の熊野神社。かりんさんによると、長崎市には熊野神社がなく、大方の都道府県の中心市街には熊野神社があるのに、長崎県は現在市よりも郡に熊野神社が多いという。明治の神社統廃合で、なくなってしまったのだろうか。
東京三元社「旅と伝説」(岩崎美術社復刻)昭和9年4月号掲載「壱岐の神社と祭事」(本山桂川著)によると、本山氏が地図の上に鳥居の形を書き入れて分布図を作ると「まるで久留米絣見たやうになってしまった」と書いているほど壱岐は神社数が多く、神社庁に登録されているだけで約150社の神社がある。
本殿
熊野神社(旧号熊野大権現)由緒沿革
境内案内より
祭神
伊弉册尊、素盞嗚尊、事解男神、速玉男神
相殿
天照大神、国常立尊、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊
天津彦々火瓊々杵尊、彦火々出見尊
軻遇突知命、埴山姫命、罔象女神、稚産霊神、大山祇神例祭日
十月二十九日 神幸祭、大神楽奉奏
浜殿ニ於テ餅ヲ撒ク、漁船パレード、假装行列一
壱岐風土記ニ言ウ、当社ハ紀伊熊野大神ト同体ナリ、往昔 本宮和泉守橘貞兼熊野ヨリ迎ヘ奉リ勧請セリ
立石村ノ産土神ナリ一
昔熊野大神、足海ニ着給ヒシヲ、本宮和泉守橘貞兼 迎ヘテ斎キ奉ル、刈田院新田ノ東ニ腰掛ケ給フ石アリ
呼ンデ権現石ト言エリ一
神社考ニ言ウ、立石村ノ海辺ニ温泉アリ昔ノ代ニハ地名ヲ 「アタミ」ト言エリ、今ハ湯ノ本ト言ウ、温泉ニ近イ熊野権現ヲ 湯屋権現トモ言エリ
一
橘貞兼高麗征伐ノ勅命ヲ承リシガ熊野大神ンイ祈リテ帰朝ノ後、熊野ヨリ迎ヘ奉ル
一
布代城主勧請シ奉ルトモ上川ノ居立石氏勧請ストモ言エリ
一
聖武天皇七年(一二六〇年前)遣唐使多治氏廣成官命ニヨリ 御鎮座ナシ奉ルトモ言エリ
一
左右矢大臣ノ銘ニ文明九年(五二〇年前)願主同作者橘頼兼 トアリ、頼兼ハ貞兼、忠兼、正兼等ノ裔ニシテ当社ノ社務ニ関係セシカ
延宝四年(三二〇年前)国主ノ命ヲ奉ジテ壱岐国式内社ノ 査定ヲナセル橘三喜ハ熊野神社、神主、立石刑部橘廣貞ノ次男ニシテ 平戸ニ住シ神道国学者トシテ有名ナリ、境内ニ立花社アリ、 橘廣貞ノ近親六柱ノ霊璽ヲ祀ル一
後光明天皇正保四年(三五〇年前)御殿造営、願主、松浦肥前 守源朝臣鎮信、神主、立石刑部橘廣貞
一
寛文二年(三三〇年前)御宝殿造営、松浦肥前守源朝臣鎮信、 社司、堤主馬(刑部卿ノ弟)
一
元禄二年大鳥居建設、祠官、神坂(堤)主水
一
天保十五年鳥居献納、長谷川栄左ヱ門
一
当社ニ霊剱(銅鉾)一口アリ彌生時代又ハソレ以前ノ遺品ナリ 外箱ノ銘ニ言ウ寛文十一年松浦肥前守源朝臣鎮信
一
蛇神、コレハ蛇ノ剱ニカラメル石像アリ昔王子五郎家ニ鶏ヲ飼ウ 時ニ蛇来リテ之ヲ呑ム家人木ノ卵ヲツクリ之ヲアザムキシニ蛇木ノ卵ヲ 呑ンデ苦シミタオル之ヨリ祟リアリ、故ニ蛇神ヲマツル後祟リ止ムト
一
又、神鏡一面アリ徑五寸、コレヲ御神体ト伝フル旨社記ノ一飾ニ記セリ
一
当社ハ藩主ノ崇敬社ニシテ祭日ニハ度々参向アリ御造営ゴトニ 白銀五枚ヲ献ゼラル
一
明治九年村社ニ列セラル
一
明治十年石燈籠一対献納願主、氏子中、祠官、松永魚沖
一
明治四十年七月神饌幣帛供進神社ニ指定サラレル
一
大正八年石垣改修、氏子中、社掌、殿川真彦
一
昭和四年御殿拝殿新築、氏子中、社掌、殿川真彦、大工豊田八百四郎、大工武田力三郎
一
昭和三十七年御手洗所建設、湯ノ本中、宮司
一
平成一年拝殿修理、氏子中、宮司
長崎の熊野信仰は紀州から海を通じて伝播したともいわれ、松浦市の不老山という所には徐福渡来の伝説があり、熊野三所権現が祀られていたという。
昔の鳥居扁額
(写真・玄松子さん、文・雅子)
No.58
2001.5.1 UP
2021.3.21 更新