九州の古刹・大興善寺の境内に鎮座する熊野神社
「つつじ寺」の別称を持ち、春はつつじ、秋は紅葉の行楽客で賑わい、「契山」の名前から、"恋人の聖地"にも選定されている、九州の古刹、大興善寺の中に鎮座する熊野神社です。
住所は佐賀県ですが、九州自動車道の最寄インターは福岡県の筑紫野です。
福岡市内から車で一時間程度の日帰り行楽スポットとしても有名で、平日でも、団体の観光バスや韓国人のカップルなどが訪れています。
観光客はつつじや紅葉が綺麗な契園に直行してしまい、その反対側にある熊野神社は吹きさらしになっていて、案内板などはありません。
熊野神社鳥居
大興善寺の127段の石段を登って、山門をくぐった左側にあります。
小松内府の塔
山門の右側にあります。
平重盛の遺髪をうめた供養塔で、この集落を小松といい、この山を小松山と呼ぶ由来だそうです。
熊野神社
熊野神社拝殿
吹きさらしですが、
ビニールシートに被われたパイプ椅子などがあり、今でも祭事を行っている感じがします。
拝殿の右側には、手水鉢があります。
拝殿内の中央には、明治参捨九年貳月に奉納された鏡が掲げられています。
拝殿の奥に、大きな石の祠があります。
石神
拝殿の左側にある陰陽の二神の石神です。
子孫の繁栄を願って、性神を祭ったものだそうです。
拝殿内の絵馬
熊野神社拝殿内の左の絵
拝殿内の左側には、日露戦争の最大で最後の陸上戦である奉天会戦の絵が掲げられています。
熊野神社拝殿内の右の絵
拝殿内の右側の絵は、私には分かりませんでした。
拝殿内の神像
熊野神社拝殿内の左の木像
拝殿内の左側の、木の格子に納められている木像です。
上下の2枚の写真を合成しています。
地元の方が調べようとしたところ、木の格子がとれなくて断念したそうです。
住職が子供の頃は、格子が外せたそうです。
情報があれば、ぜひお寄せ下さい。
熊野神社拝殿内の右の木像
拝殿内の右側の木像です。上下2枚の写真を合成しています。
熊野神社由来
この寺の熊野神社の由来を知りたく、思い切って寺務所を尋ねたところ、住職が快く教えてくださり、さらには町の歴史を編纂した分厚い書物から該当部分をコピーして下さいました。厚く御礼申し上げます。
御祭神: 木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)
元々は、大興善寺のある契山のふもとの、小松村という集落の産神だそうです。
小松という名前は、平重盛の別名の小松内府に由来するそうです。
熊野神社の掃除などは大興善寺が行っているそうですが、祭事は集落の方が行われているそうです。
小松村産神竜蔵権現記録
爰に千切山龍蔵権現の御鎮座の由来を考えるに、基肄山縁起曰人皇三十七代孝徳天皇御宇大化年中に、火国鬼門の山頂に地神三代の天孫荒穂大明神を奉遷向、相殿に木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)を安置し奉る、則荒穂大明神の御后にてわたらせ給ふ、
又当山を千切山と名付は御后木花開耶姫命安置し奉るによりちきり山といふにや、又基肄山より峰続きかの山の分山といふ説あり、ことに基肄山は火国鬼門鎮護の一山にして荒穂大明神、木花開耶姫命相殿大神以上八神にして二宮三宮摂所末社九十四神安置し奉る
それ当社龍蔵権現と申奉るは天神大山祈(ヲゝヤマズミ)神の女(ムスメ)木花開耶姫命又は賎(浅)間大明神と奉崇敬、爰に瓊ゝ杵尊、木花開耶姫命共に筑紫日向の高千穂の峰にいたり給ふ、此尊より上二代の太神は天上に留り座けり、下三代の太神ハ西州の宮におはしまして一百七十八万二千四百有余歳の世代治め給ふ、
皇孫降臨の始国津神事勝(コトカツ)国勝にあひ給ひ大宮所を求め給ふ、則三神の男神を生まし多くの年序をへさせ給ふとそきこへし、地神五代までハ神の道直しておさますしておさまり、教すして教そなわり、
君臣父子夫婦兄弟朋友師弟賓主の七品も正しくましますとかや、地神の末より人の心乱にして、真をうたかひ邪なるを信として元(ハジメ)をわすれ、末をみたる是より始て、神の道神の教という事あり、然に時の社士村民等当山辰巳一宮に御神幸行をなし奉る、祭礼の儀式厳重なりと云う、行宮所跡に今あり其道筋に十宮の神を祭る、身曾貴九柱(ミソギコゝノハシラ)の神なり、或弁財天幸神を祭、夫より山の半にして社家町という所あり、今ハさけまつとかや云り、誠に古は四時の祭礼を執行し万神を奉斎事年久し、又いつの頃か御社神宝等も悉く破却して、其後千切の足下小松村に奉還向、則其所の氏神と奉仰、九月九日祭礼を執行す、今山頂に残りものとてハ社地の囲石ずへの跡計りなり、
一 龍蔵権現 社 弐間三間 南向 社地 壱畝弐捨七歩
社再建 寛文十一辛亥年
時の代官末次平蔵茂朝、祠官寺崎式部大輔盛正龍蔵権現祭田
堂ノ上
一下田 壱畝四歩 高壱斗壱升三合当社祠官
照崎因幡守藤原盛直正徳六丙申年閏二月
(大門さん)
No.1662
2012.12.22 UP
2020.10.19 更新