平安中期に熊野本宮の神主が諸国行脚の途中に勧請したと伝わる
浜松駅のお隣の高塚駅から徒歩3分ほどの所にあります。
熊野信仰の全国的な広がりに深く関わっているのが鈴木一族でした。
源義経の家臣であった、紀州藤白の鈴木三郎重家と、弟の亀井六郎重清。
兄の頼朝に追われ奥州に逃れる義経。亀井六郎は片時も主君の側を離れず奥州へ同行いたします。
病気の母を見舞った鈴木三郎重家は、叔父の鈴木重善と共に後から奥州を目指します。
この時重善が足を患い、三河にとどまったことから、三河・遠江に鈴木姓が広まったと言います。
この高塚の熊野神社は、創建については不詳ながら、そもそもは熊野本宮の神職によって祭祀されたようです。
現在、境内には熊野の御神木の梛の木も植えられております。
拝殿のすぐ左側に樹齢500年以上にもなる椎の木があり、「雲龍椎」と名付けられたこの椎の木がこちらの御神木です。
拝殿の入口には熊野本宮大社に置かれているのと同じ、黒い八咫烏ポストが置かれており、熊野本宮大社との繋がりが深いのかな…と、視覚的に感じられました。
境内は辺りに比べて小高く作られておりますが、拝殿の奥にあります本殿の右側は、更に小高い丘状になっており、「お宮の山」と呼ばれています。この「お宮の山」によって安政の大地震の折の津波から、この土地の人々が助かったのだとか…。
御神木の木蔭には爽やかな風が吹き渡っておりました。
御祭神
伊佐奈伎命(いざなぎのみこと)
事解之男命(ことさかのおのみこと)
速玉之男命(はやたまのおのみこと)
御由緒
神社の御由緒書きより。
当社は後三条天皇の延久年間(1069年~1073年)に創建されたと口伝され、紀州和歌山の熊野本宮の神主が諸国行脚の途中でこの地に足を留めて祭祀したと伝えられ、熊野三社権現と称えられた。ある時神主が「高い丘を作って人々を救え」という不思議な夢を見たので、村人と図って神社の裏山に土をもりあげた。その後「安政の大地震」が起こり、津波のため多くの死者が出たが、この里の人々はこの丘に避難して難を逃れたと伝えられる。
また一説には、大津波の犠牲者をこの地に葬り沢山の砂を浜から運んで(浜垢離の起源)、高い墓を築いた。大きな墓(つか)であったので大塚、後に高い塚ー高塚と呼ぶようになり、地名になったと伝えられる。
(一乃会 鈴木啓吾さん)
No.1823
2021.6.14 UP