元々は平重衡の子を葬った墓であったとも
(沼津市大平字大井)
西伊豆東海バスの大平車庫より西に向かい、大井集落に入る。
大井公民館の右の山道を進んだ先に、熊野神社が鎮座している。
この山道は志下坂峠を越えて駿河湾との交易に使われていたそうだが、現在はハイキングコースとなっている。
山道に、「熊野神社の逸話」という掲示板があり、そこから神社に向かって50段ほどの石段が登っている。
石段の入口には、嘉永四年(1851)奉納の石灯籠が少し傾いて立っている。
石段を上り詰めた先、境内には熊野神社の本殿が、
左右にブロック造りの境内社を従え祀られている。
拝殿右の石灯籠には、元治元年(1864)の銘がある。
熊野神社の本殿左右には面白い表情の狛犬一対が祀られているが、製作年は昭和五年で比較的新しいものだ。
御祭神
櫛御気野命
御由緒
不詳
元暦元年北条氏が大平に関を設けたころより祀り始む、とも文治元年三位中将重衡(平清盛の五男・しげひら)の子を埋葬し児ノ御前の墓として祀る、ともいわれている。
(祭神、由緒は「大平の民俗」参照)
社頭掲示の「熊野神社の逸話」には、以下の由緒が記されている。
「大平道の記」に、
「元暦、文治のころ(1244~1249)、一人の少年が、どこからともなくやってきたが、旅の疲れの為か病に倒れ重態におちいった。
少年はいまわの際に、
『自分は、三位中将重衡の忘れ肩身で、父の廟所が東の国にあると聞いてやって来たが、今日限りの命となってしまった。せめて亡骸を葬ってください。』といい
《あこがれて、かくとも知らず、東にて、今日くち果てる身こそ辛けれ》
との一首を残して亡くなった。
里人は、亡骸を「児の御前の墓」とし祀ったところ諸願よく感応あり、慶長、元和頃より「児の宮神社」と呼ばれた。」といわれる。
やがて熊野神社として祀られた。
現在では大井地区の氏神として、一月九日に祭礼を行っている。
(TATSUさん)
No.1775
(てつによる追記)
平重衡について。
平重衡は平清盛の五男。三位中将と称された。奈良では焼討を行って東大寺や興福寺を焼亡させた。一の谷の合戦で捕虜となり、鎌倉に護送された。平家滅亡後、東大寺・興福寺が仏敵として重衡の引渡しを要求。奈良に移送される途中で斬首された。文治元年6月23日(1185年7月21日)没。享年29。 平重衡 - Wikipedia
2013.9.13 UP
2021.5.31 更新
参考文献
- 『大平の民俗』