江戸中期に熊野より鬼王権現を勧請と伝わる
こちらの稲荷鬼王神社は、職安通り付近の案内板によりますと、「もと戸塚の諏訪神社境内に勧請した」福瑳稲荷と鬼王権現を合祀と書かれていました。
御祭神、由緒等
以下、境内案内板より。
稲荷鬼王神社の御祭神
お稲荷様(おいなりさま) =
宇賀能御魂命(うがのみたまのみこと)(新宿の厄除け稲荷)
生成発展 商売繁盛 家内安全 子孫繁栄 福招き の神様鬼王様(きおうさま)(全国一社福授け) =
☆ 月夜見命(つきよみのみこと)
人の運命を司りツキを与えてくれる神様
☆ 大物主命(おおものぬしのみこと)(別名 大黒天 とも呼ばれています。)
商売繁盛 心願成就 病気平癒 心身健全 縁結び
☆ 天手力男命(あまのたじからおのみこと)
開運 武運長久稲荷鬼王神社の御由緒
鬼というと私達はとかく悪いイメージを持ちがちですが、古来、鬼は神であり、力の象徴でもありました。
又、「鬼は悪慮を祓う」といわれ、すべての災禍を祓う力があります。
その為、鬼を祀ったり、鬼の名のつく社寺は全国にいくつもあります。しかし、その鬼の王様という意になる「鬼王」という名の社寺は全国で当社のみです。
この為、江戸時代は近在の農家の人達だけでなく、江戸から武士や商人、職人と多くの人が参拝にまいりました。現在では地図にみる新宿の中央にある唯一の神社としても注目を集め、全国から当社の御神徳を得ようとする方々が詣られております。
又、この全国一社福授けの稲荷鬼王神社の由来は左記の通りです。
古来より大久保村の聖地とされたこの地に、承応2年(1653年)当所の氏神として稲荷神社が建てられました。
宝暦2年(1752年)紀州熊野より鬼王権現(月夜見命・大物主命・天手力男命)を当地の百姓田中清右衛門が、旅先での病気平癒への感謝から勧請し、天保2年(1831年)稲荷神社と合祀し、稲荷鬼王神社となりました。
それ故、当社の社紋は稲荷紋と巴紋の二つがあるのです。
稲荷紋 巴紋
紀州熊野に於いて鬼王権現は現存せず、当社はそれ故、全国一社福授けの御名があります。
この鬼王権現は、湿疹・腫物を初め諸病一切に豆腐を献納し、治るまで本人或いは、代理の者が豆腐を断ち、当社で授与される「撫で守り」で患部を祈りつつ撫でれば必ず平癒するといわれ、明治15年頃まで社前の豆腐商数軒がこの豆腐のみにて日々の家計を営んでいたといわれたほどでした。
今日でも広く信仰されています。
この信仰については江戸時代の『新編武蔵風土記』だけでなく、時代は下って文豪、永井荷風も書き記しております。
尚、当社では『鬼王様』の御名に因み、節分時、鬼を春の神として「福は内、鬼は内」と唱えます。
追記
明治時代に、旧大久保村に散在していた、火の神である火産霊神の祠や、盗難除けの神などの大久保村の土俗の神々が合祀されました。
大祭は9月18日で、神輿はその前後の日曜・祝日に出御します。
この宮神輿は鬼の面の彫られた珍しい御神輿です。追記
江戸時代に既に特異な『鬼王』という名の神社を勧請するのに地元の抵抗感が無かったのは、この土地が- 文書では残っていませんが - 平将門公(幼名・鬼王丸)に所縁があったのではないかとも言われています。境内神社
☆ 三島神社 御祭神名 事代主命(ことしろぬしのみこと)(別名 開運恵比須)
御神徳 開運・商売繁盛・豊漁・人招き文化年間に松平出雲守邸内より出現した神像を御後室の居間に安置してあったものを松平氏より松平家の祈願所である二尊院(東大久保)に奉納されました。当時、大久保村の社寺の多くを、代々稲荷鬼王神社社家大久保家が神職或いは別当職として守ってきましたが、この二尊院も大久保家が代々別当職を兼ねており嘉永6年10月に同院が火災にあい、当時の別当大久保家12世政光がその恵比須神を大久保家に遷し、大久保家14世義道が稲荷鬼王神社境内に奉斎し、今日に至っています。
この恵比須神は新宿山之手七福神の一つに数えられ、今日、正月7日は七福神巡りで賑わっております。
10月19日(宵宮)10月20日(大祭)は新宿えびす祭として境内で「べったら店」が出店されます。
御詠歌 「うみ山の数の宝の大久保の恵比須大神守り給へや」その他 『かえる石』 水を掛け恵比須様に お参り後、 その『かえる石』をさすると、金運がかえる。良き縁がかえると、いう信仰があります。
☆ 浅間神社 御祭神 木花開夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)
(別名 西大久保の厄除け富士)古より当地にあった浅間神社に(?)、明治27年、稲荷鬼王神社に合祀され、昭和5年西大久保の魔除け富士として復興される事になり、霊峰不二の石をはじめ全国からの銘石をとりよせ建立されました。
そのつくりは、境内の自然地を利用せず、すべて石で造りあげた為、非常に特色のある浅間神社(富士山)でした。
しかし、戦中、帝都空襲の為、石の基盤石がゆるまり、縮小・移動を繰り返した結果、現在の形に落ち着きました。
1合目から4合目、5合目から頂上までと参道を挟んで二つにわかれた形になることによって参道そのものが、富士の胎内に通ずる道となっております。
この参道から頂上の社をお参りする事は霊峰富士に籠ってお参りするのと同じ利益がございます。泰平寺
江戸時代、神仏習合の時代に稲荷鬼王神社では当山脈修験青山風閣寺の末寺で、不動明王を祀る三宝山大乗院泰平寺というお寺があり、代々稲荷鬼王神社社家大久保家にて奉仕していましたが、明治の初め還俗して廃寺となりました。
※ 他にも地域の寺社の多くは、大久保家が代々神職や別当職として奉仕されていたと記されています。
大久保の地名(字名)と大久保家(家名)の由来 大きい窪地の意味の伝承。
江戸時代、内藤家(内藤新宿の領主)の信任厚く、病気平癒など祈祷を行ったとの伝えもあるそうです。年中行事
1月 お正月
※ お正月三が日の昇殿参拝時に授けて頂けるご祈祷府を一緒に置くとより一層ご利益を得ることが出来ると記されています。(元旦から3日までは社殿に上がって参拝可能とのこと。)2月 節分
4月 鎮花祭(はなしずめのまつり)
非公開だが 4月18日~月末まで境内に多数の桜草展示(現存の全ての桜草と記されています)。春、桜の散る頃に悪病が流行ることから、それを防ぐよう昔からおこなわれ来た祭り。9月18日 大祭 その前後の土日に縁日および、神輿渡御。(大人神輿は宮神輿。鬼面の彫り物。)
10月20日 恵比須祭 (19日から宵宮)
12月13日 すすはらひ
6月30日 12月31日 大ばらい
※ 2014/01/14撮影時のデータです。最新の情報は各自でご確認下さい。
浅間神社(富士山信仰) 社殿側。石碑、南無妙法連と読み取れます。
塚の石は様々ですが、主に富士山の溶岩石が使われているように感じました。
浅間神社 社務所側。
小御岳石尊大権現、屏風岩、御胎内、馬返しなどと刻まれています。
別の石碑などには、丸の中に谷、十七夜講、廿六夜、理髪師などの文字もありました。
鬼王神社の水鉢は、新宿区指定有形文化財とのことです。
また、水鉢の隣の井戸は、稲荷鬼王神社霊泉とのことで、古来より水が湧き出し続けているそうです。
以下、案内板より
鬼王神社の水鉢
文政年間(1818年~1829年)の頃に制作されたもので、うずくまった姿の鬼の頭上に水鉢を乗せた珍しい様式で、区内に存在する水鉢の中でも特筆すべきものである。
水鉢の左脇には、区内の旗本屋式にまつわる伝説を記した石碑があり、これによると、
「この水鉢は文政の頃より加賀美某の邸内にあったが、毎夜、井戸で水を浴びるような音がするので、ある夜、刀で切りつけた。
その後、家人に病災が頻繁に起こったので、天保4年(1833年)当社に寄進された。
台石の鬼の肩辺には、その時の刀の傷跡が残っている。……」とある。この水鉢は、高さ1メートル余り、安山岩でできている。
平成5年1月 東京都新宿区教育委員会
境内に掲示されていた、別の案内文によりますと、
通称「力様」(リキサマ)。
鬼形の水盤石は、相撲の力士が四股を踏んで病や苦しみを人に与える邪鬼を
追い払っている姿です。伝説は、次の通り。
「伝え云う。盤石もと加賀美某の庭園なる池汀にあり。
文政3年の頃、その処を更へした奇異を現し、連夜庭内にて水浴の音す。
加賀美某大に怪しみ一夜家宝の名刀を抜いて、これを斬(斬の手偏が口)れり。
その後、奇変息(火と息)みたるも家人病災頻りなるより、恐怖の念を生じ、天保4年、盤石斬りたる宝刀(鬼切丸と称す)と共に盤石を当社に寄進せりという。
今も鬼形の肩辺に刀痕あり。實者盤石をこれに注ぐと熱病又子供の夜泣き等は
平癒すると言い伝えられ、今に至るも信者(皮と頁)多し。
因みに鬼切丸は翌天保5年盗み去られて今、その所在地をしらずとぞ。」
水琴窟。
稲荷鬼王神社鳥居。
神社近くの交差点の表示は、『鬼王神社』です。
稲荷鬼王神社社務所の女性から伺ったお話
☆ 鬼王神社は、鬼を祀る神社ではない。
☆ 紀州熊野 の 紀 → 鬼 の文字とした。
※ 紀王権現 ? → 鬼王権現 ?
☆ 鬼は強い存在。
☆ 鬼は カミ kami とも読む。
☆ 九鬼水軍 通常は クキ kuki と発音するが、九鬼水軍の大将は、九鬼 と書いて クカミ kukami と読む。
とのことです。(大変勉強になりました。ありがとうございました。)
鬼王神社の紀州熊野の本の宮はどちらに存在したのでしょうか。
とても気になります。
そしてまた、今回の参拝も神仏分離や廃仏毀釈などの影響を感じる結果となりました。
職安通りに設置されている周辺地図。
今このときも変化し続ける東京新宿の街。
(瀬音さん)
番外編 No.34
2014.2.3 UP
2021.7.25 更新