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◆ 三栖廃寺塔跡(みすはいじとうあと)  和歌山県田辺市下三栖


国指定史跡跡、奈良時代前期の寺院跡、かつての熊野の中心地

三栖王子 熊野古道中辺路(なかへち)」。万呂王子と三栖山王子の間、「三栖廃寺塔跡」の道案内にしたがって左の坂道を進むと、国指定史跡三栖廃寺塔跡があります。

 三栖廃寺は、白鳳時代(645年〜710年)の創建。約100m四方の敷地に法隆寺様式の伽藍をもった立派な寺院であったと推定されています。

 牟婁郡の郡司の氏寺だったのではといわれ、当時の郡役所にあたる「郡家」もこの辺りにあったのでは考えられています。当時はこの辺りが牟婁郡(熊野)の中心地であったのでしょう。

 現在、周囲は梅畑や蜜柑畑や人家。ここにかつては立派な寺院が建っていたとは今からでは想像がつきません。

 今から1300年ほど昔にはこの辺りが熊野の中心地であったのか。

 いつの時代までこの辺りが熊野の中心地であったか。どのような経緯で廃れていったのか。

三栖廃寺塔跡説明板 説明板より。

  国指定史跡 三栖廃寺塔跡

昭和10年12月24日指定  
昭和60年3月25日追加指定

所在地 田辺市下三栖   

 三栖廃寺は奈良時代前期(白鳳時代・7世紀後半)の創建とされ、塔跡の位置などから、法隆寺式伽藍配置で、寺域は方1町(約100メートル四方)と推定されている。白鳳時代の寺院跡としては近畿地方で最も南であり、古代牟婁郷の中心地における郡寺とも考えられている。

塔基壇上には、砂岩系の三角形状の自然石を利用した心礎が残っている。この心礎には心柱を受ける凹柱座があり、さらにその中には舎利を納める孔が穿たれているが、ほかに後世に削られたと考えられる痕跡もある。

 田辺市教育委員会が帝塚山考古学研究所に委託して実施した発掘調査の結果、この基壇は一片約9メートルの瓦積みで、南側前面の中央には自然石を積んだ階段が残っている。この規模から三重塔と推定されている。

 付近からは、白鳳時代後半から奈良・平安時代にかけての軒丸瓦軒平瓦をはじめとする多量の瓦、石製九輪(くりん)の一部、風鐸(ふうたく)の風招、石製天蓋の一部など貴重な遺物が出土している。

 なお、塔跡、北東30メートルのところで、僧坊跡(基壇規模が東西約15メートル、南北約9メートル)と考えられる建物跡が確認され、整備されている。

平成6年3月25日    
田辺市教育委員会   

三栖王子からの眺め もうひとつの説明板。

 三栖廃寺は奈良時代前期の創建で、同時代に建てられた寺院跡としては紀伊半島で最も南に所在していますが、創建に関する文献はありません。

 三重塔と推定されている塔の土台(基壇)上に心礎が残っています。心礎は一辺約190cmの三角形の砂岩系の石で、直径約65cm、深さ約7cmの円形の柱座が彫られており、その中央に直径約14cm、深さ約9cmの舎利孔が穿たれています。発掘調査により基壇南辺で東西約6.2m、高さ0.3〜0.6mの基壇縁化粧と中央に幅約1.8m、奥行き約0.9mの三段の石積階段が崩れた状態で確認されました。

 復原にあたり、基壇一辺を9.4mとし、埋め戻されている石積階段を一段のみ復原表示するとともに、塔創建期の基壇瓦積を見られるようにしました。

 発掘調査では心礎以外の瀬石の痕跡は確認されていませんが、四天柱の礎石4と側柱の礎石12を復原設置しています。

平成17年3月31日
田辺市教育委員会

 寺院があったことはわかっても、それ以上のことはわかっていないようです。

 ◆ 参考文献

くまの文庫4『熊野中辺路 古道と王子社』熊野中辺路刊行会
西口勇『くまの九十九王子をゆく 第二部 中辺路・大辺路・小辺路編―田辺・高野から那智・新宮へ―』燃焼社

 

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