熊野比丘尼の拠点・妙心寺の由来
「神倉記并妙心寺由来言上」(熊野神倉本願妙心寺文書)より「妙心寺由来」を現代訳してご紹介します。訳せなかった箇所もあり、誤って訳している箇所もあると思います。ご教示いただけたら幸いです。神倉山の麓にある妙心寺は熊野比丘尼の拠点となった寺院のひとつ。
妙心寺由来 現代語訳
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慈覚大師が熊野三山にお登りになり、神倉に参籠し法華経御供養した。よって当寺の内に法華経の石をお立てになった。今も前庭にございます。
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人王74代御帝 鳥羽院、天仁2年己丑(つちのとうし)秋7月、熊野三山御幸供奉の僧尼の内、永信尼(えいしんに)が当寺の住持を任命し(※任命され、か?)、福泉坊が後見仕りました。
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元永戊戌(つちのえいぬ)、同帝が熊野三山御幸し、当寺へお入りになられ、永信尼は大内まで供奉仕りました。
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大治3年戊申(つちのえさる)、白河院女院が当寺にお籠りの夜、御心妙なる御霊夢をお得になった。よって当寺を御建立になられ、妙心寺の寺号をくだされ置かれた。これより妙心寺と申してきました。
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本堂は神倉愛染明王を勧請仕ります。あわせて由良開山法燈国師が妙心寺にしばらくお入りになられたとのことです。
法燈国師木像 1体
母公妙智尼木像 1体
右は国師の自作と申し伝えます。他に
永信尼木像 1体
妙順尼木像 1体
右の通り安置仕り申し上げています。
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毎年正月11日の神蔵釿始式(ちょうなはじめしき)に、妙心寺・金蔵坊が隔年に出仕し祝義を相勤めて来た。もっとも、本堂修営の主役でございます。自力で奉加できがたい大破の折は、若山の殿様へ願を奉り上げて来ました。
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曼荼羅堂1宇、本願は3学院でございます。神倉橋の本願は宝積院でございます。願職兼帯の儀は享禄年中神倉大破修営のこれより本願を申し受け称して来ました。今もって修験道で願職を兼ね申し上げています。
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居屋敷の儀は若山御寄進の350石のうち、いずれも配当仕り申し上げています。
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天正16年戊子(つちのえね)10月16日神倉御炎上につき、本山方修験時の一和尚楽浄坊、当山方修験妙心寺祐信、金蔵房らが九州を勧請奉り、御放免を蒙り、9ヶ国巡行仕り、再造仕りました。この再造によって本願妙心寺とも申して来ました。
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宗門の儀は前々から真言宗でございます。人別御改の儀は毎年願所庵主で相済ませて来ました。
右の通りは古い書留が申す伝で書き上げ申しました。昔から古修験が相勤め、享禄4年に本願職を相金申し上げております。御吟味のうろんなものは1人もございません。万一御法度のものは隠し置き、後日相知り申す者は、いかようにも仰せ付けください。前々のように法脈血脈相続き仕り、また弟子らに至るまで生国で吟味仕り、確かなものは貰い受け申し上げましょう。後日のために仍如件。
神倉再造本願
妙心寺
ゆうてん
同本願
金蔵房
仙證
元和8年(1622年)壬戌(みずのえいぬ)7月
熊野惣地御順見
若山御奉行
黒柳奇覚様
右の通り吟味の上書き上げました。紛らわしいものは1人もございません。よってこの奥判仕り差し上げます。以上。
熊野新宮
本願所
行尊
熊野比丘尼
戦国時代のころ熊野信仰に全国的な拡大に大きな役割を果たしたのが熊野比丘尼と呼ばれた僧形の女性芸能者たちです。彼女たちは熊野信仰を広めながら各地を勧進(社殿の修理などのために寄附を集めること)して歩きました。
彼女たちは、熊野牛王宝印(烏牛王ともいう)を売り、『観心十界曼荼羅(地獄極楽図とも熊野の絵ともいう)』や『那智参詣曼荼羅』などを絵解きし、熊野の聖なる土地としてのイメージを人々の心に浸透させていきました。
この熊野比丘尼たちの本寺が、新宮神倉の妙心寺と本宮の西光寺でした。
熊野比丘尼たちは、諸国を勧進して集めた浄財を持って、毎年暮れに本寺である妙心寺や西光寺に戻り、浄財は本寺に献金。浄財は、本寺から熊野三山のそれぞれに社殿の修理費用として分配されました。
熊野比丘尼たちは、暮れから正月にかけて年籠りをし、熊野牛王宝印や勧進を正式に認めるという「願職」の免許状の更新などを本寺から受けてから、それぞれの持ち場に戻り、あるいは諸国を巡り歩く勧進の旅へと赴きました。
(てつ)
2010.3.11 UP
2021.4.26 更新
参考文献
- 根井浄・山本殖生 編著『熊野比丘尼を絵解く』法蔵館
- 加藤隆久 編『熊野三山信仰事典』 神仏信仰事典シリーズ(5) 戎光祥出版