熊野比丘尼の拠点
神倉山の麓、神倉神社の太鼓橋から数十メートルの所に妙心寺はあります。
神倉神社の本地仏である愛染明王を祀る尼寺。現在は無住で、熊野速玉大社 の管理下にあります。
以下、境内の説明板より。
妙心寺の由来
神倉山「中の地蔵」の造営・勧進元(本願所)の尼寺。本尊は神倉神社の本地仏愛染明王。
寺伝によると、天仁2年(1109)、鳥羽院の熊野御幸に供奉した永信尼(えいしんに)が住し、大治3年(1128)には白河院の女院が、当寺で心妙なる霊夢を得たことから寺を建立、寺号をとしたともいう。鎌倉時代には法燈国師の母が入寺したと伝え、勧進聖の拠点寺院としての由来を物語る。
本願寺院としての活動は、大永年中(1521~27)より享禄4年(1531)に至る、比丘尼妙順尼(みょうじゅんに)と弟子祐珍尼(ゆうちんに)の神倉勧進・再興にはじまる。それより修験道を兼ねる本願職を免許されたという。天正17年(1589)には祐信尼(ゆうしんに)・金蔵坊(こんぞうぼう)が九州を勧進し、神倉社を復興している。中世末から近世所期にかけて、多くの熊野比丘尼らを配下にもつ本願寺院として栄えてきた。
しかし、近世には熊野三山の運営の中心であった社家の勢力におされ、力を失ったが、公家の息女が数代入寺するなど、門跡尼寺としての由緒ある寺歴を伝えている。
明治初年の神仏分離で神倉神社と分かれたが、法燈国師の托鉢用の木鉢(県指定文化財)や唐竹の杖、歴代住持の像など、多くの寺宝が伝来する。
新宮市教育委員会
南方熊楠の「南方二書」には以下のように記されています(てつによる口語訳)。
新宮では、神社合祀を東牟婁郡中に励行したが、まず郡内の手弱い素朴の民が多い七川郷から始め、神社を多く合祀、しかし添の川という所で暴動が起こり少々躊躇、これのため高田という山村また那智村の辺りは全く抗議し、今日まで残存した。その入れ合わせに、小生が昨年の国会へこのことを持ち出さないうちにと、大急ぎで新宮中の神社のことごとく破却公売し、新宮神社へ合祀する。その時の励行はじつに烈しく、鳥羽院に随侍して来た女官が立てた妙心寺という寺までも、神社と称し破滅しようとするに至った。
(てつ)
2010.3.10 UP
2021.4.26 更新
参考文献
- 根井浄・山本殖生 編著『熊野比丘尼を絵解く』法蔵館
- 中沢新一 責任編集・解題『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 河出文庫
妙心寺へ
アクセス:JR新宮駅から徒歩15分
駐車場:出雲大社新宮教会横に神倉神社観光客用駐車場あり