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橋杭岩(はしぐいいわ)

 和歌山県東牟婁郡串本町鬮野川 鬮野川村:紀伊続風土記(現代語訳)

弘法大師伝説を生んだ大小40余りの奇岩群

橋杭岩

 弘法大師と天の邪鬼とが一晩で大島まで橋を架ける競争をしたが、負けそうになった天邪鬼が鶏の鳴きまねをして夜が明けたと思わせたため、弘法大師が作業を止め、橋を完成させることなく杭だけで終わったという伝説を生み出した奇岩群、「橋杭岩」。

 海岸から大島に向かって一直線に約850mに渡って大小40余りの奇岩が林立しています。
 不思議な光景です。砂や泥が海底に堆積してできた堆積岩中の割れ目にマグマが貫入して冷え固まったものだそうで、その後、隆起し、柔らかい堆積岩は海の波により侵食され、硬い火成岩の部分が断続的に取り残されて、橋脚が並んだような地形となりました。大地の歴史を示すこの独特の地形は、国の名勝・天然記念物に指定されています。

橋杭岩

橋杭岩

 橋杭岩の列の中ほどにある木の茂った島が弁天島。

橋杭岩

 赤く見えるのが鳥居です。干潮時には弁天島まで歩いて渡ることができます。 神社があって弘法大師の伝説もある、ある意味、神仏習合的な場所です。

 以下は『紀伊続風土記』のくじ野川村の条の橋杭岩に関する記述(現代語訳てつ)。

小名橋杭の東、海の中にある。また立岩ともいう。陸から20間を始めとして順次に海上に立ち並ぶことは、じつに橋杭を並べるがごとく海の中6~7町の間に長くつながりつづく。その数は全21。

海底の深さは測ることができず、海面から出る岩の高さは3間ばかりから8間ばかりにいたるものがあり、その海底からの高さを想像できる。杭と杭の間の距離はある所は7~8間、ある所は10間余り。配置がよく、峻しく直立し、抜刀をもって削ったかのようである。まことに鬼工である。

相伝えて、太古この地から大島へ橋を架け渡したときの橋杭が残ったのだという。古座浦の古老が相伝えていうには、先年、津波のとき、海水がいったん沖中に集まり、大島の辺りは海水が涸れたが、島の形を望むと、その下一面に空隙の所があって、橋杭の上に橋板を置いた形があったという。そうであれば、上古は大島まで陸路が続いたかはいざ知らず、遠く差し出ている地が波に砕かれてその遺っているものを橋杭というのかもしれない。穴門の例もあるので土地の人の伝えは一概にでたらめとはいいがたい。

橋杭岩

桑名屋徳蔵の伝説

 橋杭岩には弘法大師伝説とは別にもうひとつ興味深い伝説があります。

ここに示すは、紀伊西牟婁郡串本町付近の海岸より一列に排び出た橋杭岩で、桑名屋徳蔵大晦日の夜、妖怪とここで問答した。……この辺に時に濃霧咫尺を弁ぜず、そんな時この橋杭岩が城のように現わるるぐらいは造作もなかろう。
(「桑名徳蔵と橋杭岩の話」南方熊楠全集第3巻、533—534頁)

 桑名屋徳蔵の伝説。桑名屋徳蔵(桑名徳蔵とも)は江戸時代の名高い船乗り。「徳蔵廻し」という帆船が風に向かって切り上がっていく航法を編み出したと伝えられる人物です。

 著者、成立年未詳の随筆『雨窓閑話』より引用して熊楠は桑名屋徳蔵を紹介しています。

その一四章にいわく、「ある者の物語に、桑名屋徳蔵という者、名ある船乗りの名人にて、所々難海どもを乗りしことあり。この徳蔵申しけるは、月の晦日に出船すること必ず斟酌すべし、と言えり。ある時、徳蔵何方にてかありけん、ただ一人海上を乗り行きしに、にわかに風変わりて逆波立ちて、黒雲覆いかかり、船を中有に巻きあげるようにて、肝魂も消え入るべきを、徳蔵もさすがしたたか者なれば、ちっとも動ぜずして、蹲踞りける向うへ、背の高さ一条ばかりの大入道、両眼は鏡へ朱を注したるがごとき妖物出て、徳蔵に向かいて、わが姿の恐ろしきやと言いければ、世を渡るの外に別けて恐ろしきことはなしと答えければ、かの大入道たちまちに消え失せ、波風も静まりければ、徳蔵は辛き命を助かりけるとぞ。……某の人いわく、徳蔵賤しき下郎なりといえども、その志の逞しく丈夫なること、なかなか言わん方なし。妖怪の物出現して詞をかけし時、世渡りの外に恐ろしきことなしと言いしは、まことに名言と言うべし、云々」と。
(「桑名徳蔵と橋杭岩の話」南方熊楠全集第3巻、527—528頁)

(てつ)

2004.10.27 UP
2011.9.1 更新
2014.5.2 更新
2015.1.9 更新
2015.4.3 更新
2019.11.3 更新

参考文献

橋杭岩へ

アクセス:JR串本駅から熊野交通バス新宮行きで4分、橋杭岩バス停下車すぐ
駐車場:無料駐車場あり

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