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◆ 平尾井薬師堂(ひらおいやくしどう)  三重県南牟婁郡紀宝町平尾井


白河法皇勅願の薬師堂

 白河法皇勅願と伝わる薬師堂。
 岩がすごいので、元は磐座信仰の場であったことは容易に想像できます。

平尾井薬師参道

平尾井薬師参道

平尾井薬師

 薬師堂の背後にある岩の存在感。

平尾井薬師

 横から見ると、巨岩がお堂にのしかかるかのよう。

平尾井薬師

 岩の下に石仏が置かれています。

 駐車場にある説明板より。

平尾井薬師堂(石負山仏願寺)

 古来、熊野へは歴代天皇が御幸され、白河法皇が寛治4年(1090)以来12回にわたり熊野三山二御幸された時、逢野細谷(相野谷)の地に、薬師堂の建立を勅願し許されたのが、熊野三仏平尾井薬師である。
 本尊は、当方瑠璃光薬師如来で特に、首より上の病に霊験功徳あり。御堂は、幾度も炎上し現建物は、昭和38年、平尾井区民有志、篤志家の寄進によるものである。
 又、薬師堂上の巨岩に足跡の形が彫られ、仏足跡と言い、昔日、高貴な方の参詣の証として刻まれたものであると言われる。

平成6年8月吉日     
紀宝町教育委員会   

 薬師堂の背後にある岩の所にある説明板より。

足形

往時、文章を解せざる時代に於いて高貴又は特殊の方の入来に□衆する術なく足形手形を残したと云う。釈尊御出誕の地なり御巡歴の地にも足形手形を以ってした跡が数多く見られ、此の大石の足形もその慣わしによって勅願記念する為のものなりと伝えられている。

熊野三仏平尾井薬師

往時相野谷を逢野細谷と云った。
平尾井に逢野峠・細谷、鮒田には逢野口等の地名が残っている。
後鳥羽法皇を始め奉り歴代の帝相、熊野に御幸数十回に亘らせられ、今から千三百七十八年前白河法皇熊野三山に御幸の砌、逢野細谷の地に薬師堂を勅願建立、即ち熊野三仏平尾井薬師である。
以来幾度か炎上したが、先の堂宇は明和三年に建立。
現在の建造物は昭和三十八年に区民及び篤志者の寄進により建て替えたものであります。

石負山仏願寺(明和三年戌三月建立)
本尊 東方瑠璃光薬師如来     
本寺 普門山円通寺        

如来として石仏の右肩に欠損の箇所あり。
明治八年毀釈の時、社寺取調役度会県知事の使いに津市結城神社神主来山あるとの注進により、平尾井村肚煎役百姓喜助の寄せたる智により一同相計り、床下に本尊を隠さんとする時、その石仏の肩が隠穴に差し出でたるを以って削り取りたるものなり。
本尊は五臓六腑の病いを癒す師にして悲願大願こめて霊験厚く、古来御利益を得んとする者は、みどりの黒髪を断ち、あるいは福利受けし者は、穴のあきたる石を供ふ。
今に至って絵馬黒髪、穴石、白糸をかけたるは、善男善女精進の意を誓願したる印と伝えられる。

   平成五年四月       

薬師の庭

熊野名勝は細谷薬師 白河帝勅願所
 おどりおどれよ薬師の庭で 木履はなをきれるまで

白河法皇熊野三山御幸の砌、逢野細谷の地(平尾井)に勅願建立された。
石負山仏願寺本尊東方瑠璃光薬師如来を中心にして、わが国固有神道を奉ずる当地方百姓共、外来の布教に少なからぬ反感を抱き、□が祭祀に排斥を企て、その御入来をはばまんと□□の道中に待機し暴挙を計るも法皇正規の軍勢の前には俄仕立ての百姓一揆共□抗する術なく甚遠なる説法により鎮撫された。
感激した百姓共は当時唯一の娯楽である踊りを供覧した処、嘉納の栄に浴し、以後三界万霊供養の為に奉納せよとの御言葉を拝したのが今の平尾井踊りの始めであり、その場所がこの広前である。
いわゆる薬師踊りの発祥の地□□□

 磐座信仰と仏教の習合の地。

平尾井薬師参道

 薬師堂の近くにはこんな岩も。人の手により積まれた石がすぐそばにあるので、この岩も磐座として祀られていたのでしょう。

 ◆ 参考文献

『みえ東紀州の旅』東紀州地域活性化事業推進協議会

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アクセス:JR熊野市駅から車で30分
駐車場:駐車場あり
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