周参見浦の守り神
周参見湾に浮かぶ周囲1kmほどの無人島。標高79m、面積は約4ha。
古くから周参見浦の住民に神様の島として信仰されてきた島です。全島が神域で、原生林に覆われ、島の前には鳥居が立ちます。
江戸時代に作られた紀伊国の地誌『紀伊続風土記』の周参見浦の項には、
○稲積島
本村の正面の海の中にある。周9町。樹木が繁茂し、四季で色を変えない。島の中はみな山王王子社の境内である。この島の東端地方の出崎からの距離はわずかに2町ばかり。もしここを埋めて陸続きにさせられれば、この浦は舟掛りがよく廻船が泊まることができて繁盛の地となるであろうという。○山王王子社 境内周9町
稲積島にある。この島は周参見浦の正面にある。寛永20年の棟札に電隈山皇子(いなづみやまおうじ)と書いてある。これが古の神号である。延宝2年の棟札が初めて弁財天社と書くがそれは誤りである(世の人は海崖江上に臨める神は多く弁財天とする。みな僧侶のこじつけから出るものである。この神が弁財天となるのもまたこの類である)。しかしながらその電隈山皇子と称する神もどのような神でいらっしゃるのかわからない。考えてみるに、本国神名帳伊都郡に稲積神社があるが、この神と同神であろうか。
とあります(現代語訳てつ)。
稲積島があることで荒波が遮られ、周参見湾は船繋りの港となりました。天然の良港となり、商港としても栄え、口熊野の行政の中心地ともなりました。周参見の人たちの暮らしは稲積島によって支えられていました。
すさみ海水浴場から望む稲積島。
稲積島という島名については、神武東征の折、稲の献上を命じられた住民が稲束をこの島に積んで献上したことからこの島を稲積島というようになったとの伝説があります。
熊野の植物生態学を見るに、最も必要の地点
南方熊楠は稲積島について次のように述べています。
……周参見の稲積島も珍奇の動植物多く、熊野の植物生態学を見るに、最も必要の地点なり。
(「神島のバクチの木に関する補遺、及び天然記念物保護」『牟婁新報』明治44年8月9日付)
熊楠は稲積島を、熊野で植物生態学(エコロジー)を研究するのに最も必要な地点だと訴えました。
西牟婁郡周参見浦の稲積島は、樹木鬱陶、蚊、蚋多く、とても写真をとることもならぬほど樹木多き小島なり。神島と等しく、この島神ははなはだ樹を惜しむと唱えて、誰も四時以後住(とどま)るものなく、また草木をとらず。
稲積島にお祀りされる山王王子社の神様はとても木を大切にする神様だといわれました。島内から草木を持ち出すと災いが降りかかるとされ、そのため稲積島には希少な植物や昆虫が生息することができました。
しかしながら山王王子社も明治42年(1909年)に近くの陸地にある周参見王子神社に合祀されてしまいました。
当郡周参見浦の稲積島は亜熱帯植物の特産地なるに、神社合祀後大阪の商人等来たり珍草の濫取はなはだし。これらは何とか保安林に編入、また神社も復旧されたきことなり。
(柳田國男宛書簡、明治44年8月10日付)
稲積島はオオタニワタリの自生北限地として知られましたが、稲積島から神様がいなくなると、島に盗採者が上がり込むようになりました。わざわざ大阪から植木屋が来てオオタニワタリなど珍しい植物を引き抜いていきました。昭和8年(1933年)に突堤(とってい:海岸から海に長く突き出た堤防。防波堤、防砂堤)が建設されると島に歩いて渡ることができるようになり、盗採がさらにひどくなったようで、ほとんど絶滅してしまいました。
その後、近辺で栽培され繁殖したものを稲積島に植え戻す活動が行われましたが、そもそも神社が潰されていなければ絶滅することもなかったのでしょうし、その点は非常に残念に思います。
しかしながら稲積島では植物の盗採こそありましたが、神社が潰されたあとも森の伐採が行われなかったのは特筆すべきことで、やはり周参見の人々にとって稲積島が特別な存在であったからでしょう。
稲積島の神社が潰されてから21年後の昭和5年(1930年)、熊楠のもとに周参見在住の田所四郎という人物から手紙が届きました。稲積島の神社跡をどうしたらよいかと相談する内容でした。それに対して熊楠は次のように答えました。
……御地稲積島の旧神社蹟は、山頂へ上げず旧来のままに据え置くが、島のために宜しと存じ候。古人のせしことは猥りに動かすべきにあらず、これを動かさばその趾は何のわけもなく発掘などされるに極まったものにて、その地の古蹟これがため湮滅(いんめつ:跡形もなく消えてしまうこと)し、後日何とするともとりかえしの付かぬこととなり申すべく候。また山頂へ神社を上げ候わば、それよりせっかくの神林はおいおい荒廃しゆくことにて、つまり水産が土地より遠ざかり行く等、いろいろ難事が生じ申すべく候。
(田所四郎宛書簡、昭和五年七月七日付『全集』別巻一)
熊楠はこの返信のなかで次のようにも述べました。
新しきものを見極めて新しく起こすと同時に、古いものは一村一郷の精神の基本なれば、古いものほど尊ばれたきことに御座候。
(前同)
稲積島には現在、稲積弁財天神社が祀られており、いつ島に神社をもどしたのか確認できなかったのですが、この頃から復社に向けて動いていたのかもしれません。
その後、稲積島の森は昭和46年(1971年)に「稲積島暖地性植物群落」として国の天然記念物に指定され、保護されることになりました。島内への立ち入りは禁止されていて、上陸には許可が必要です。
突堤の影響について
稲積島を陸続きにした突堤の建設には南方熊楠も反対していました。突堤は盗採によるオオタニワタリの絶滅の他にも周参見湾や稲積島に悪影響を与えました。
在野の生物学者で、田辺市文化財審議会委員長や南方熊楠邸保全顕彰会常任委員などを歴任し、2003年に第13回南方熊楠賞特別賞を受賞された後藤伸氏は次のように述べています。
この地域の磯はイセエビをはじめ、アワビ、フダイ、ウツボなど魚介類の多産地で、磯釣りの好適地でもあった。工事が完了した翌年からは、以前の漁場に加えて、新しい突堤の両岸にも魚介類が集中した。 地元では、湾内が平穏になったうえ、漁獲高が飛躍的に増えたと、大変な喜びに沸いた。
ところが、三年後に獲物が少なくなり始め、五年後には湾内の磯にゴミと泥の堆積が目立ち始め、ついに漁場は消滅してしまった。突堤はその後数回、改修・強化されて現在に至っているが、湾内の磯は埋没し、やがて埋立て地となった。いまは広い住宅地になり、元の磯辺を国道四二号が走っている。この状態からは、昔の姿を想像することはできない。
突堤の完成後一〇年ほど経過したころ、稲積島の南東斜面の森林が島の頂上近くまで枯 れた。強固な突堤にさえぎられた台風時の高波が、島の南東斜面に強くぶつかるようになったためである。打ち上げた荒波がトベラやマルバシャリンバイ、ウバメガシなどからなる海岸林を枯らした。この海岸林は内部のスダジイ林の生育を支えていたが、海岸林の欠損した部分から海水を含んだ強風が容赦なく原生林を襲い、壊滅させたのであろう。
(後藤伸・玉井済夫・中瀬喜陽『熊楠の森—神島』農文協、91—92頁)
『紀伊続風土記』にも稲積島を陸続きにできればというようなことが書かれていましたが、陸続きにしたことで湾内の漁場は消滅し、磯が埋没し、稲積島の原生林の一部が破壊されたのです。
(てつ)
2011.7.31 UP
2017.3.11 更新
2020.3.17 更新
2024.2.16 更新
2024.2.17 更新
2024.2.27 更新
2024.3.12 更新
参考文献
- 『紀伊続風土記 (第1-5輯)』臨川書店
- 後藤伸・玉井済夫・中瀬喜陽『熊楠の森―神島』農文協
稲積島へ
アクセス:JR周参見駅から徒歩10分
駐車場:すさみ海水浴場に無料駐車場あり