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奇絶峡(きぜつきょう)

和歌山県田辺市 秋津荘:紀伊続風土記(現代語訳)

天下の奇観、絶景の名勝

奇絶峡

 田辺湾に注ぐ会津川の支流・右会津川の上流にある峡谷の、約2kmにわたって奇岩・巨岩が見られる区間を奇絶峡と呼びます。峡谷の東には高尾山(標高606m)があり、西には三星山(標高549m)があります。

『紀伊続風土記』での記述

 奇絶峡はもとは「川中」と呼ばれ、『紀伊続風土記』の秋津荘の項には次のように記されています。

川中奇勝

秋津川村の小名下と上秋津村と相接する所の二つの山が峡をなす。その間は一里余りで、秋津川はその間を流れる。山川の形状はほとんど言葉で記すことができない。

この地は龍神山が西にあり、鷹尾山(※今は高尾山と表記します)が東にあり、切り立った崖が険しく東西に相渡り、二つの山がここに来て相迫り対峙して峡をなす。奇岩怪峰がゴツゴツと屹立して崖に至り、まるで犬の牙が錯出して互いに避けあうようだ。

一条の藍流がその間に注いで淀みなくうねり曲がって雷のように吼える。その東側に一線の細い道が巌の腰に沿ってめぐって転々と百折してかろうじて通ずる。このようなものが一里余り。その中間に橋があって、線路は西側に転じる。その形状は書の上手な人が書き成したかのようだ。これを高橋という。瀑布があって落差は二丈ばかり。

このような絶勝はこの近くにはまるでない。山容石質はまた他の山と全く異なる。これもまた一奇である。峡中に松葉蘭を産する。常に百匹余りの猿の群れが出てきて遊ぶ。鷹尾山より来る猿の群れはみな鼠色で、龍神山より来る猿はみな黒毛であると土地の人がいう。

(※1里は約3.9km)

秋津荘:紀伊続風土記(現代語訳)

 その後、川中の奇勝は漢学者たちに景勝の地として愛されて「奇絶境」と表現され、明治の末頃には「奇絶峡」の字で書かれるようになりました。

管野スガの記事

奇絶峡

 「大逆事件」で女性としてただ一人死刑となった管野スガはいっとき田辺に住んで『牟婁新報』の記者をしていた時期があり、須賀子のペンネームで奇絶峡を訪れたときのことを記事にしています。

▲洋傘持たざりしを悔ゆる程の暖かさ。黄金の華とばかり美しき鈴なりの金柑樹の多きに驚き、蒲公英(タンポポ)、蓮華草(レンゲソウ)の美わしきに見惚れ、白紫とりどりの菫(スミレ)の愛らしさに心をひかされ、桃の花美しきに我を忘れ上秋津の葉枯れし凱旋門に都を偲び、機織る乙女の鄙歌に謂い知らぬ感に打たれ、里を離れ堤を伝い、かくてようよう白竜の滝を見し時の嬉しさ。

▲奇絶峡とや、げに。されど。奇なる山、怪なる石、玉と散りつつ流るる水、それらを一々説うんは烏呼なり。何となれば、この記事を掲ぐる本紙はこの勝景の専有主たる、田辺に於いて発行せらるるものなればなり。

須賀子「半日の閑」『牟婁新報』明治39年3月日付

 奇絶峡がいかに美しい所であったのかが伝わってきます。

奇絶峡と南方熊楠

大人の足跡

道路建設

 文人たちに愛された奇絶峡ですが、明治末期、神社の森さえ破壊されるような時勢でしたので、奇絶峡もやはり破壊されていきました。

(乙)は、前状で述べし奇絶峡とて、田辺から二里ばかり、耶馬渓そこのけという絶景の地なり。希植物多し。これも、何のわけもなく道路作るとて破壊はなはだしく、また石を伐り出すゆえ、地質学、考古学上の参考たるべき大足跡石など、まさに亡びんとす。毛莨(きんぽうげ)科のタニモダマも他所に少なくこの辺に多し。ホウライカズラもこの辺のみありて開花す。チャボホトトギス、ジョウロウホトトギス等あり。

松村任三宛 南方熊楠書簡、明治44年8月31日付

大人の足跡

 「まさに亡びんとす」と熊楠が気に掛けていた巨人の足跡が刻まれた大足跡石は、幸い今も残されています。
 日本の各地でダイダラボッチ、ダイダラボウシなどと呼ばれて、山や湖沼を作ったと伝承されるものと同様の巨人ですが、熊野ではそのような名前はなく、大人(おおびと)と呼ばれます。

稚児の足跡と大人の足跡(那須晴次『伝説の熊野』)

前書申し上げし奇絶峡という風景絶可の渓を、只今六万円の大工事を起こし、岩石をきり、樹木を損じ、炭薪を運ぶ道を作りおり。この道成らば上秋津村という村大繁盛すべしという。これは郡吏等留任継続のためのことにて、村民の負担重くなり、また実際そんな道作りて不断炭薪を出すほどの樹林もなく、実につまらぬことに候。

柳田國男宛 南方熊楠書簡、明治44年10月13日付『南方熊楠全集』8巻、平凡社

水力発電所建設

水力発電所

 また奇絶峡に水力発電所を建設する計画も立てられました。その建設計画について大正4年6月21日付の『牟婁新報』で熊楠は次のように述べています。

次に、近次秋津川の水力を応用するとて、奇絶峡のある部分に人工を加うる由聞くこと毎々なり。已むを得ぬことにもあるべきが、これまた相応に注意して、行く行く天下の奇観として内外人が来遊すべき名勝をむちゃくちゃに殺風景に俗化せしめざらんことを望む。(水力電気事業に止まらず、すべて奇絶峡中の岩石を破壊するごときは、断然廃めて貰いたい。石採取禁止区域も、現在の区域のみにてははなはだ狭し。ずっと上流をも禁止区域に編入せられたし。上秋津領の山にては、今なお石材を採取しつつあり。これらは本郡長においても十分厳重なる取締りをなすこと緊急なり。)

「奇絶峡と南部の神島。湊村横手八幡社趾保護に関する南方先生の書簡」『南方熊楠全集』6巻、平凡社

 いずれは「天下の奇観」として多くの観光客が訪れる景勝地となるはずだからと、建設に当たっては景観に配慮することを熊楠は求めています。さらには奇絶峡はエコロジー(生態学)の研究に役立つ場所だから保全しなければならいのだとも主張しています。

 奇絶峡の水力発電所は大正6年(1917)12月に工事が完成。翌年7月に運用が開始されました。奇絶峡でつくられた電気は下流の村々に配電されました。地元の有志により設立された会社が運用する発電所でしたが、その後いくつかの会社を経て昭和26年(1951)に関西電力株式会社に引き継がれ、平成16年(2004)2月に廃止されました。

エコロジーにもっとも有用の所

 奇絶峡は植物活状学にもっとも有用の所に候。これはエコロギーと申し、近来発達の学問にこれあり。小生が一昨々年ロンドンで一寸発端を出し置き候如く植物と植物と相互の関係を知る事もっとも必要、また植物と動物、植物と無機物との関係を見るにももっとも必要なり。

 支那日本には昔よりこの事に気付き例へば蜜柑の下に葱を栽れば蜜柑に病菌なく、白と赤との蓮を一所に栽れば必ず白は絶滅する。地下に石炭ある所は必ずヤマジソといふもの繁茂する等の事例多し、小生一昨々年ある学者の問いに応じ東洋で知りたる例を列記し出せるに西洋に学者多きにこの事は日本人にしてやられたりと米国の一学者が評された。

 この植物活状学は追々非常に研究を促がす事と相成るべく、さる場合人工の少しも加わらざるこの奇絶峡にあらざればこれを試験する地はこの界隈にこれなく候。

「奇絶峡保勝に関し南方先生より本社毛利に寄せられたる書」『牟婁新報』大正5年9月23日付

 ここでは熊楠はエコロギー(エコロジー)を「植物活状学」と訳しています。エコロジーは「近来発達の学問」である、と熊楠が説明しているように、この頃はエコロジーという学問の黎明期でした。今では普通に使われるエコシステム(生態系)という言葉すらまだない時代でした(エコシステムという言葉ができたのは1935年とされます)。

 熊楠はエコロジーを「植物と植物と相互の関係」を知り、「植物と動物、植物と無機物との関係」を見る学問であると説明し、その研究のために「人工の少しも加わらざる」奇絶峡はとても重要な場所であると熊楠は訴えました。

奇絶峡

国の名勝に

その後、上秋津村の村長に宛てた書簡のなかで熊楠は次のように記しています。

この頃貴村分の奇絶峡一部の川中の大石を割り居る由、県庁はこの谷の風景を保存のため岩を割ることを制止しあるに、はっきりとその界限を示さざる故、目今のところ何とも言い得ざる由なるも、折角の名勝行く行くは国家的に保勝さるべきものを、この保勝の声高き世に甚だ惜しきことと存じ候。しかし小生はその方の委員に推されたるも辞し通したる故、何とも言い得ず。もし貴下の御力に及ぶことならば、何とかあんまり大事にならぬよう御心を添えられたき、小生一己希望を申し上げ置き候。

中山雲表宛 南方熊楠書簡、昭和12年1月22日付『改訂南方熊楠書簡集』紀南文化財研究会

 「折角の名勝行く行くは国家的に保勝さるべき」と熊楠は述べているので、小規模な施設であったため水力発電所建設それ自体による景観の破壊はそれほどなかったのでしょう。それよりも問題だったのが、川中の大石を割って運び出す業者でした。県による景観保護のための規制も十分ではなかったようです。

  「行く行くは国家的に保勝さるべきもの」という熊楠の言葉から78年、平成27年(2015)にようやく奇絶峡は「南方曼陀羅の風景地」を構成する風景地のひとつとして国の名勝に指定されました。

(てつ)

2021.2.27 UP

参考文献

奇絶峡へ

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アクセス:JR紀伊田辺駅からから龍神バス(龍神線)で約20分、奇絶峡バス停下車。
駐車場:駐車場あり

田辺の観光スポット