俗称お劔さん
和歌山県田辺市の旧大塔村鮎川の、下平という地区の山裾にある神社。
明治時代末に近くにあった劔神社(つるぎじんじゃ)がこの神社合祀されたため、それ以来、俗にお劔さんと呼ばれるようになりました。
社伝によると宝永年間(1704~1711年)の摂津の住吉大社から勧請。鮎川村の産土神として崇敬されました。明治初年(1868年)に社名をそれまでの住吉社から住吉神社と改称。
明治7年(1874年)には鮎川王子を合祀。以降、同40年(1907年)まで村内の神社を合祀。
向かって左側が住吉神社、右側が劔宮。劔宮(劔神社)のご神体は、大塔宮護良親王より拝領された剣。
住吉神社の左手には合祀された神社が並びます。鮎川王子もそのなかに。
社殿背後の社叢にあるオガタマノキは県指定天然記念物。樹高27.3m、幹周り4.08m
社叢そのものも県指定天然記念物。
以下、境内の劔宮の由緒書きより。
熊野劔宮の由来
建武の昔、人皇第九十六代後醍醐天皇が、当時鎌倉幕府の執権北条氏が陪臣の身でありながら、幕政を行い民百姓を苦しめるので、之れを討伐せんものと、皇子二品法親王(後の護良親王)に命じ、紀伊路および十津川方面に義兵をつのらんものと竹原八郎重國、平賀三郎國綱等少数の侍臣を従え、熊野詣の山伏姿に変装され、元弘一年十月下旬、相賀王子(現鮎川新橋停留所付近)に一夜を明かされたが、敵追撃を逸早く知られた宮は、道を東に転じ間道を下河越えにとられ、小川谷に姿を消されたが、空腹に堪えかね二、三の家にて食を請われたが、此のとき既に、敵の手が回っていたので、如何ほど請うても一人として顧みるものはものはなかった。
時恰も十月亥子、粟餅を棚に並べながら勧め奉ることのできなかったことは情無き限りである。後年になって大塔宮であらせられたことを知り、不敬を悔い以来此の地は一切餅つきをせぬことになった。昭和七年に大塔宮六百年祭斎行されるに当たり小川区民は六百個の粟餅を捧げ奉り、お詫び申し上げてより餅つきは行っている。
さて、宮の一行は谷水に空腹を凌ぎながら、山谷を遡り水呑峠を越え、辛うじて安川の水上(今の大塔山)に着かれ約三か月後、元弘二年正月奥熊野へ移られた。同年六月宮は、征夷大将軍に任ぜられ京都へ還御されたが、再び身辺に大難が迫るに至った。
建武元年十月、足利尊氏の企てにより遂に宮は鎌倉に御下向され、二階堂薬師ヶ谷投光寺に月日の光だに通らぬ土牢に幽閉されること八か月翌二年七月敵の手により無残なる最期を遂げられた。明治二年七月天皇の御思召により鎌倉宮を創建、親王の御霊をまつられ同六年六月官幣中社に列された。大塔宮護良親王鎌倉拘禁され同時に、親王の手となり足となって、辛苦のかぎりを尽くした人々は数多く拘禁されたが、この内、竹原兵庫守(竹原八郎の弟)平賀三郎國綱の両人は巧みに逃れ、以前親王のお供をしてきたこの地に姿を隠し、世の推移を窺ううち、主君親王は足利氏の為、鎌倉にて不幸な御最後を知り、平賀三郎は、仏門に入り後霊を慰め奉り、竹原兵庫守は、曾て親王より拝領の御宝剱を御霊代として、小川の地に熊野劔宮として祀るに至った。
明治四十年二月太政官布告により、当住吉神社に別社熊野劔宮として、鎮られている。
三月三十一日 劔宮春季大祭
十一月三十日 劔宮秋季大祭
(てつ)
2010.5.25 UP
2020.8.10 更新
参考文献
- 和歌山県高等学校社会科研究協会『和歌山県の歴史散歩』 山川出版社
住吉神社へ
アクセス:JR紀伊田辺駅から龍神バス熊野本宮行き、鮎川新橋バス停下車、徒歩10分
駐車場:駐車場あり