大塔宮護良親王より拝領の御宝剣を祭って御神体とした神社の跡地
和歌山県田辺市鮎川の小川谷にある神社の跡地。
剱宮はその名の通り、剣を御神体とする神社でした。大塔宮護良親王(おおとうのみや もりよししんのう/もりながしんのう)の家臣・竹原兵庫守(熊野の土豪、竹原八郎の弟)が親王の死後、親王より拝領した御宝剣をお祭りして御神体としたことから始まったと伝えられます。
剱宮は明治時代末に住吉神社に合祀されましたが、住吉神社は剱宮を合祀した後、「お剱さん」と呼ばれるようになりました。それほどに剱宮や護良親王は地域の人たちにとって大きな存在であったのでしょう。
剱宮の跡地には現在も鳥居が立ち、祠が置かれています。
田辺市指定史跡(名称:剱宮跡、指定日:昭和51年12月20日)。
橋を渡って境内に入ります。昔は川で足元を濡らし、身を清めてから参拝したのでしょう。
大塔宮護良親王
護良親王:作者不明, Public domain, via Wikimedia Commons
大塔宮護良親王は後醍醐天皇の皇子。鎌倉幕府倒幕に尽力し、倒幕運動の最中には熊野に潜伏した時期もあり、鮎川の地にも立ち寄ったと伝えられます。倒幕後、建武の新政で護良親王は征夷大将軍となりますが、足利尊氏と対立して失脚し、鎌倉に幽閉され、殺害されました。
剱宮跡のある田辺市鮎川は平成17年(2005年)の合併により現在は田辺市の一部となりましたが、それ以前はこの地域は大塔村に属しました。大塔村は昭和31年(1956年)に当時の鮎川村の一部と三川村と富里村の一部が合併して発足した村で、合併する3村にはそれぞれ大塔宮護良親王にまつわる遺跡や伝説があり、それに因んで大塔村という村名が決められました。
剱宮の由来
境内の由緒書きより
熊野剱宮の由来
建武の昔、人皇第九十六代後醍醐天皇が、当時鎌倉幕府の執権北条氏が陪臣の身でありながら、幕政を行い民百姓を苦しめるので、之れを討伐せんものと、皇子二品法親王(後の護良親王)に命じ、紀伊路および十津川方面に義兵をつのらんものと竹原八郎重國、平賀三郎國綱等少数の侍臣を従え、熊野詣の山伏姿に変装され、元弘一年十月下旬、相賀王子(現鮎川新橋停留所付近)に一夜を明かされたが、敵追撃を逸早く知られた宮は、道を東に転じ間道を下河越えにとられ、小川谷に姿を消されたが、空腹に堪えかね二、三の家にて食を請われたが、此のとき既に、敵の手が回っていたので、如何ほど請うても一人として顧みるものはものはなかった。
時恰も十月亥子、粟餅を棚に並べながら勧め奉ることのできなかったことは情無き限りである。後年になって大塔宮であらせられたことを知り、不敬を悔い以来此の地は一切餅つきをせぬことになった。昭和七年に大塔宮六百年祭斎行されるに当たり小川区民は六百個の粟餅を捧げ奉り、お詫び申し上げてより餅つきは行っている。
さて、宮の一行は谷水に空腹を凌ぎながら、山谷を遡り水呑峠を越え、辛うじて安川の水上(今の大塔山)に着かれ約三か月後、元弘二年正月奥熊野へ移られた。同年六月宮は、征夷大将軍に任ぜられ京都へ還御されたが、再び身辺に大難が迫るに至った。
建武元年十月、足利尊氏の企てにより遂に宮は鎌倉に御下向され、二階堂薬師ヶ谷投光寺に月日の光だに通らぬ土牢に幽閉されること八か月翌二年七月敵の手により無残なる最期を遂げられた。明治二年七月天皇の御思召により鎌倉宮を創建、親王の御霊をまつられ同六年六月官幣中社に列された。
大塔宮護良親王鎌倉拘禁され同時に、親王の手となり足となって、辛苦のかぎりを尽くした人々は数多く拘禁されたが、この内、竹原兵庫守(竹原八郎の弟)平賀三郎國綱の両人は巧みに逃れ、以前親王のお供をしてきたこの地に姿を隠し、世の推移を窺ううち、主君親王は足利氏の為、鎌倉にて不幸な御最後を知り、平賀三郎は、仏門に入り後霊を慰め奉り、竹原兵庫守は、曾て親王より拝領の御宝剱を御霊代として、小川の地に熊野剱宮として祀るに至った。
明治四十年二月太政官布告により、当住吉神社に別社熊野剱宮として、鎮られている。
『紀伊続風土記』より
『紀伊続風土記』には以下のように記されています(私による現代語訳)。
劔明神社
境内森山周1町40間
末社 若宮
小川谷にある。天文21年勧請の棟札がある。剣を祭って神体とする。戦国の頃この地に引き蘢った人の所持の宝剣を祀ったのであろう。神威霊験があることから諸人尊信して四方より参詣祷祝する者が多い。小川谷の産土神である。また愛賀川に鞘明神という小社がある。
大塔宮護良親王が亡くなったのが建武2年(1335年)のことで、『紀伊続風土記』には神社の棟札には天文21年(1552年)勧請とあり、この記述に従うと護良親王の死後200年以上を経ての神社創建ということになりそうですが、大塔宮護良親王より拝領の御宝剣というのはもしかしたら明治以降に生まれた伝説なのでしょうか。
(てつ)
2022.9.2 UP
参考文献
- 『紀伊続風土記 (第1-5輯) 』臨川書店
熊野剱宮跡へ
アクセス:JR紀伊田辺駅から車で約30分
駐車場:駐車場なし