み熊野ねっと 熊野の深みへ

blog blog twitter facebook instagam YouTube


amazonにて販売中!

田本研造生家跡(たもとけんぞうせいかあと)

 三重県熊野市神川町神上1173 神川村:紀伊続風土記(現代語訳)

熊野謎解きめぐり 大地がつくりだした聖地

日本写真界の先駆者 田本研造の生家跡

田本研造生家跡

 日本写真界の先駆者、田本研造の生家跡が三重県熊野市神川町神上にあります。

 以下、説明板より。

田本研造生誕の地

田本研造の人生

 研造は天保2年(1831)田本家の長男としてこの地で生まれた。田本家は周辺の田畑や多くの山林を所有する富裕な農家であった。山林業が盛んなこの地域では、木材を筏で運搬していた。好奇心旺盛な研造少年はこの筏に便乗し、当地方きっての文化都市であった新宮によく遊びに行き、時代を先取りする気持ちが芽生えていったという。

 22歳のとき医師を目指して長崎へ旅立ち、28歳のとき函館に渡ったが凍傷が原因で右足を切断する不運に見舞われた。しかし、その手術をしたロシア人医師ゼレンスキーから写真術を学び、写真家田本研造がスタートすることになった。高度な技術を身につけ、明治初年には大きな写真館を建て、土方歳三や榎本武揚など函館戦争の主役たちを撮影している。さらに明治4年(1871)開拓使御用写真師となって義足で全道を旅し、貴重な記録写真を数多く遺した。

 日本写真史の冒頭に大きな足跡を残した研造は、大正元年(1912)81歳で亡くなったが、郷土に一度も帰ることなく函館立待岬の住吉墓地に今も眠っている。

 この近くにある嶺泉寺の裏山に供養碑、鬼ケ城東口に顕彰碑が建っている。

 下の画像は函館戦争の際に田本研造が撮影した土方歳三の写真。

土方歳三の写真

 テレビや本などで時折目にするこの写真が、田本研造が撮影したものだったのですね(この写真は、著作権の保護期間が満了しているため、パブリックドメインの状態にあります)。

田本研造生家跡

田本研造生家跡

 もうひとつの説明板より。

熊野市史跡準文化財指定  日本写真界の先駆者 田本研造 生家跡

所在  神川町神上 殿浦
指定  平成四年二月二八日

 世に次なる三賢を以て日本写真界の三大先駆者という。長崎の上野彦馬 横浜の下岡蓮杖 熊野出身函館の田本研造。

 田本研造は、天保二年(1831)神川村神川の殿浦に生まれ、二二歳で長崎に出て蘭医吉圭斉に仕え、安政六年(1859)長崎奉行の通詞松村喜四郎に随行して北海道に渡り、オランダ船で賑わう長崎からロシア船で賑わう函館へとやってきました。

 その後、研造は、自分の将来を写真師か医師か薬剤師開拓技術士か定まらぬままでしたが、二~三年後凍傷がもとでエソという難病に罹り右足切断、この手術に当たったロシア領事館のゼレンスキー医師からロシア写真を学ぶ機会を得、ついに写真師ならんと決意。

 そうして、開拓使専属写真師として、数々の記録写真を撮り、傍ら、函館戦争の日仏軍士官、幕軍兵士、戦艦回天丸、そして数々のアイヌ写真、さらに今に残る榎本武揚、土方歳三、東久世北海道開拓長官等の写真も研造の撮影と伝えられ、厖大な作品を後世に残しました。

 かくて、大正元年(1912)一〇月二二日 八一歳で函館に没するまで、足の不自由もあってついど故郷に帰ること一度もなく、折にふれ近況報告傍北海道写真を次々郷里に送り来り、神川には今もその時の写真が方々に残ってるという。

  熊野市教育委員会

 こんな人が熊野出身だったのですね。全然知りませんでした。

(てつ)

2009.10.18 UP
2013.1.20 更新
2021.10.4 更新

参考文献

田本研造生家跡へ

アクセス:JR熊野市駅から車で約30分くらいでしょうか 
駐車場:駐車場あり

熊野市の観光スポット