南方熊楠について
宇久井ビジターセンターの記念企画「”よしくま”の森で君も南方熊楠になろう!」のために用意した原稿
2015年10月25日(日)、吉野熊野国立公園 宇久井ビジターセンターさまの「吉野熊野国立公園”よしくま” 西へ広がる&祝指定80周年 記念企画『”よしくま”の森で君も南方熊楠になろう!』」で、南方熊楠について話をさせていただきました。このときのために準備した原稿です。
森永製菓株式会社さまのご協賛をいただきました。
南方熊楠が昭和天皇に献上した森永ミルクキャラメルの箱のレプリカ(南方熊楠顕彰館所蔵)
おはようございます。只今ご紹介いただきました大竹哲夫と申します。
本日は、南方熊楠についてお話しさせていただきます。よろしくお願いいたします。
熊楠のお話の前に少し自己紹介をさせていただきます。
私は田辺市本宮町、熊野本宮大社のある町で暮していまして、「み熊野ねっと」という熊野の魅力を情報発信するウェブサイトを運営しています。
熊野のことを詳しく調べようと思って検索したら、大体のことで私の作っているページが上位に出てくる、そういうウェブサイトになっています。
インターネット上ではてつと名乗っていますので、そちらから私を知ってくださった方はだいたい私のことをてつさんとかてっちゃんとかてつくんとか呼んでくれます。ですので、み熊野ねっとのてつさんと覚えていただけたら幸いです。
「み熊野ねっと」以外にも複数の熊野関連のウェブサイトを運営していますが、そのなかに南方熊楠のサイトもありまして、そこでは熊楠の文章を現代語訳して紹介しています。その活動が認められまして、南方熊楠顕彰会という熊楠の功績を広く伝えていこうという会の事業部委員に就任されまして、熊楠のイベントのお手伝いや熊楠グッズの制作などに関わらせていただいています。
これは私がプロデュースして作った熊楠のTシャツです。田辺にある南方熊楠顕彰館で販売していますので、欲しいと思われた方はぜひ顕彰館に足を運んでいただけたらと思います。
それでは、南方熊楠についてお話させていただきます。
南方熊楠は今から100年程前に熊野地方で暮しながら、学問の世界で国際的に活躍した人物です。
今から110年ちょっと前(1901年から1904年の間)、熊楠は那智勝浦町で暮していました。勝浦とか市野々とか天満とか那智勝浦町を転々としています。熊楠が30代半ばの頃です。その後、田辺に移り、亡くなるまで田辺で過ごしました。
現在、世界で最も権威のある科学雑誌とされる『ネイチャー』です。去年小保方さんのスタップ細胞の騒動がありましたが、そのスタップ細胞の論文が掲載されていたのが『ネイチャー』です。その『ネイチャー』に世界で最も多く論文が掲載されているのが南方熊楠です。
熊楠の『ネイチャー』掲載論文数は51篇。これは一研究者の『ネイチャー』掲載論文数としては歴代最多です。日本人最多とかのレベルではなく、世界最多です。
南方熊楠は、幕末、明治になる前年、慶応三年(1867年)の生まれです。ですので熊楠は江戸時代生まれの人物です。
江戸時代生まれの日本人が英語で論文を書いて『ネイチャー』掲載論文数歴代最多の記録をいまだ保持し続けています。
熊楠とはそういうとてつもなくすごい人なのです。
熊楠はいろいろなことをしていますが、有名なのは変形菌の研究です。こんなのとかこんなのとか、いろいろな形のものがあります。
変形菌というのは、普段はこのような形ではなくアメーバーのような姿をしていて、動いてバクテリアなどを食べる、そういう動物なのですが、あるとき小さなキノコのような形になって胞子を飛ばして繁殖する。動物とキノコの間を行き来するような面白い生き物です。
熊楠はそれまで日本に20種ほどしかなかった変形菌を200種ほどにまで増やしました。同じく変形菌の研究者であった昭和天皇(今の天皇の前の天皇)が自ら熊楠に会うことを希望して、わざわざ田辺まで来て、熊楠から学問の講義を受けた。熊楠は昭和天皇がわざわざ会いにくるすごい変形菌研究の先駆者でした。
戦前の変形菌の新種と変種を合わせた発見の数は熊楠が8種、昭和天皇も8種で、それが日本一。戦前の変形菌の新種・変種の発見は熊楠と昭和天皇がツートップでした。
それから熊楠は生物、生き物の研究だけをしていたのではなく、人間の文化についても研究していました。熊楠は、柳田国男と共に日本の民俗学という学問を生み出した、作り出した民俗学の創始者でもありました。
民俗学というのは、自民族の、自分たちの伝統的な文化を研究する学問です。柳田国男は熊楠のことを「日本民俗学最大の恩人」だと述べています。
そして、熊楠は学問だけでなく社会的な運動も行いました。神社合祀反対運動というものです。
今から百年ほど前、明治政府は、神社を整理統合して1町村に1社だけにしなさいという神社合祀政策を進めました。
合祀。合わせて祀る。神社の統廃合です。潰された神社の森は伐られました。
熊野地方は古くから木材や木炭の産地だったので、熊楠の時代にすでに自然の森、原生林っぽい森というのは神社の森と、他には切り立った場所とかよほどの奥山とかにしか残されていませんでした。
神社合祀は、そのわずかに残されていた自然の森を破壊する自然破壊でした。だから熊楠は神社の森を守ろうと神社合祀反対運動に立ち上がりました。
熊楠は神社合祀反対運動の中でエコロジーという言葉を使いました。エコロジーを日本に初めて紹介した人はまた別の人(東京帝国大学教授の三好学)ですが、エコロジーという言葉を使って自然保護運動を行ったのは熊楠が日本で最初です。
これは、文化庁が公表している平成25年12月31日の時点での都道府県別の宗教団体の数をまとめた表です(『宗教年鑑 平成26年版』)。
これの神社の部分を見ると、現在、最も神社の数が多い都道府県は新潟県で、4762社。
2番目に多いのが兵庫県で、3867社。
以下、福岡(3423社)、愛知(3366社)、福島(3073社)と続きます。
神社合祀を実際にどう行うかは各都道府県の知事に任されたので、都道府県により合祀を激しく行った場所、あまり行わなかった場所がありました。
新潟や兵庫などは神社合祀に消極的で、そのために現在、神社が多い県となっているのだと思います。
逆に神社が少ない県を見ていきますと、最も神社が少ない県は沖縄県で、13社。沖縄は明治より前は別の国で、別の信仰の形を持っているので神社は少ないです。
2番目に神社が少ないの県がどこかというと、和歌山県です。444社。新潟県の10分の1以下です。
以下、宮崎678社、大阪732社、山口752社、(香川804社、北海道808社、鳥取825社、三重851社)と続きます。
和歌山県のお隣の三重県はどうかというと851社で、47都道府県中9番目に神社が少ない県となっています。
熊野地方を含む和歌山県と三重県には、神社合祀政策が進められる以前はもっともっとたくさんの神社がありました。
これは明治42年の和歌山県統計書です。和歌山県内の神社の数がわかります
神社合祀政策は明治39年(1905年)から始まりますが、その前の年には和歌山県には5836社の神社がありました。今の新潟県より1000以上多くの神社がありました。
それがどんどん減って、神社合祀政策が進められて7年後の大正2年(1913年)には442社になりました。和歌山県ではおよそ92%の神社が潰されました。(和歌山県統計書. 明治42年 和歌山県統計書. 大正2年)
お隣の三重県では10413社の神社がありました。今の新潟の倍以上の神社がありました。それが7年後には1165社に。三重県ではおよそ89%の神社が潰されました。
全国では約20万社あった神社の13万社ほどになりました。全国ではおよそ35%の神社が潰されました。それに対して和歌山県と三重県ではおよそ90%の神社が潰されました。
そうしたなかで神社の森を守ろうと戦ったのが熊楠です。
熊楠は日本の自然保護運動の先駆者でした。
熊楠の生物研究の拠点は神社の森でした。変形菌の採集も神社の森で行われました。
熊楠は変形菌の研究が有名ですが、その他、様々生き物に興味を抱き、観察や採集を行いました。
熊楠が昭和天皇に学問の講義を行ったとき(昭和4年 1929年6月1日)、熊楠はいくつもの標本を持って行って、天皇にお見せして解説しました。そのときの標本というのは、変形菌だけでなく、他の植物や動物のものもありました。
どのようなものを見せたかというと、まず一番最初に天皇にお見せしたのが、田辺の人がウガと呼ぶ動物のアルコール漬けの標本です。
この写真の左側が昭和天皇にお見せしたものです。これは現在、白浜の南方熊楠記念館で展示されています。
ウガというのは、セグロウミヘビというウミヘビのしっぽにコスジエボシというフジツボが複数付いたものです。
フジツボというと磯の岩場に貼り付いている富士山型のものが思い浮かびますが、このフジツボには貝殻がありません。
標本では色が抜けていますが、熊楠はこのフジツボについて「龍が持つ紫色の珠」と表現しています。龍という架空の生き物が持つ宝珠、今風というか漫画風にいうと、ドラゴンボール。紫色のドラゴンボールです。
そしてウガについては「紫色の光を発し、竜が珠を抱く姿で泳ぐ」というような表現をしています。
このウガという不思議な動物をまず最初に天皇にお見せしました。
それからオカヤドカリという陸上に住むヤドカリなどもお見せしました。
オカヤドカリというのは熱帯の地域に棲息するヤドカリで、本州では珍しくて、国の天然記念物に指定されています。宇久井にもいるそうです。この写真では手でつかんでいますけれども、普通の人は捕まえてはいけません。許可を得た人だけが捕まえることができます。
それからこのような菌類図譜、採集したキノコを図に描いて説明文を加えたもの、こういうものもお見せしました。
熊楠が残した菌類図譜は3500枚以上ありますが、そのうちの120枚がこの本に収められています。(『南方熊楠 菌類図譜』 )
その他いろいろなものを見せた後、最後に変形菌の標本をお見せしました。向こうの展示コーナーに置いてある森永のミルクキャラメルの大きな箱、見ましたか?
あの森永のミルクキャラメルの大きな箱1箱に、小さな箱に変形菌の標本を入れたのを10点収めて、それを11箱、合計110点の変形菌の標本をお渡ししました。この熊楠と森永製菓さまのご縁で、今回、森永製菓さまからご協賛をいただいているということですよね。
私が持っていった『南方熊楠 菌類図譜』
と、森永製菓株式会社様からご提供いただいたミルクキャラメル。
今回、宇久井という場所でお話させていただくので、熊楠が宇久井に行った記録がないか探してみたのですが、ありませんでした。浜の宮までは来ているのですが、そこから新宮方面に向けては訪れていないようです。
宇久井には来ていませんが、宇久井と言えば、いま、全国的には、光るキノコ、シイノトモシビタケの大発生地として知られています。
このシイノトモシビタケですが、発見されたのが東京の八丈島で昭和26年(1951年)ですが、じつはそれよりもずっと前に熊楠が那智で採集しているようなのです。
これは南方熊楠顕彰館所蔵資料です。
「夜光菌ノ図」とあります。見ていきますと、
明治36年東牟婁郡那智村、市野々ですかね。ここらは何と書いてあるかわかりません。
南方熊楠、筆ですかね。
明治36年というのは1903年。
これを見たときにシイノトモシビタケに似ていると思ったので、光るキノコの研究者である大槻国彦さんという方に見ていただいたところ、やはり、まず間違いなくシイノトモシビタケだろうということでした。
シイノトモシビタケが発見される48年前に、熊楠がシイノトモシビタケと思われるキノコを那智で採集しています。
熊楠は4000点以上のキノコを採集しているのですが、新種の記載ということをしておらず、きちんと手続きしてあれば相当数、熊楠発見の新種のキノコがあったのかもしれなのですが、新種の記載ということに関心がなかったのか、その点は残念に思います。
宇久井でシイノトモシビタケが大量に発生するのは目覚山というところ。
そこは神様の島、神様の森で、神社があります。そこでは木に登ったらダメで、もちろん木を伐ってもいけない、花を取ってもいけない。特別に神聖とされた場所です。
だからこそ自然が守られ、シイノトモシビタケをいま見ることができます。
熊楠の自然保護というのは神社の森を丸ごと守るというものでした。特別大きな木を守るとか、特別珍しい生き物を守るとか、そういうことではなく森全体を守る。
宇久井に熊楠は来ていませんが、宇久井は熊楠の自然保護の精神を感じることができる場所のひとつだと私は思います。
熊楠という人はとてつもなく大きな人なのでまだまだ話足りないのですが、そろそろ時間なので、これで私のお話は終わります。ありがとうございました。
宇久井ビジターセンター 今日の1枚です。(イベント情報)10/25
てつ
2015.10.26 UP