関東随一霊験所・師岡熊野神社の由来
神奈川県横浜市港北区師岡町1168にある熊野山全寿院法華寺。隣には「関東随一大霊験所熊埜宮」師岡熊野神社があり、神仏分離がなされるまでは神仏一体の霊場でした。
2011年4月9日(土)に開催された「Deep in 熊野 vol.1 熊野エヴァンジェリスト・てつさんに聞く『これが熊野だ!』@大倉山 熊野山法華寺」では法華寺さまにお堂を会場として提供していただき、たいへんお世話になりました。ありがとうございます。
熊野山全寿院法華寺も、もちろん熊野にゆかりのあるお寺ですので、その『縁起』を現代語訳してご紹介いたします。この『縁起』は、室町時代、貞治3年(1364年)5月に熊野山全寿院法華寺住僧の瑞海(ずいかい)によって記されたものです。
熊野山全寿院法華寺に伝わる『縁起』現代語訳1
そもそも熊野権現というのは、人皇45代聖武天皇神亀元年(724年)、老翁がひとり当山に来て、梛の木のうろに居住して、木食して昼夜怠ることなく法華経を読誦することを長年続けた。
その者の名を全寿という。その生所、姓名はわからない。年移って法華経1万部を満願する日に当たって、紫雲たなびき、その雲の中から声がして全寿に告げた。
「この山というのはかたじけなくも、本地は安養の教主である弥陀尊の変作、熊野証誠大権現影向の霊山である。権現垂迹の地なので、印に宝札を授ける。謹んで崇め奉りなさい」
そう告げて、雲の中から1尺四方の板を降らす。
全寿は奇異の思いで3度頂戴してみると、古い文字で熊野三宝印という文字を彫り付けてある。すぐに神木のうろに納め奉り、ますます精進勇猛となり、法華経を読誦したのだ。
それより以来、当所の人民は、紀州熊野権現が影向したことを知った。
師岡熊野神社境内
師岡熊野神社境内
そうして後、全寿が思念して、
「私は身命を捨て、木食して草衣を着し、寒暑を厭わず法華経を読誦し奉るのも、来世の成仏を願うためである。しかしながら、このような霊瑞を念ずると、紀州熊野山は下品上生の地である。つまるところ、私が生きている内に熊野へ参籠して、速やかに往生の真因を得よう」と念じて、しばらく眠ったところ、夢中に金色の弥陀の尊形が顕われになった。
弥陀は全寿の頭頂をさすって示して言った。
「汝は知るか。われは弥陀仏である。安養の都を出て、同居の塵に交わり、熊野権現として顕われ、釈迦と弥勒の二仏の中間の闇を照らすのも、ひとえに衆生結縁のためである。われはこの山に飛び移って、衆生を利益しよう。そのとき、瑞相の光明があるだろう。この光明を見る者はみな恐れるだろう。このゆえに汝を長いこと待った。われが汝に対面することは、大和国、春日明神の前において行われるであろう。そのときに毘須羯摩が作った弥陀仏を与えよう。この像を背負って下向しなさい」と明白に示顕しなさった。
全寿は夢から覚め、感涙。肝に命じて、すぐに春日に参籠して、しばらく観念して神前を見ると、霊夢に違わず、御長さ2尺6寸の木仏があった。新しいむしろの上に尊容を乗せて背負い奉り、当国に下った。
遠山、雲海に日を重ね旅行の屈脚に及ぶ、そのとき、如来が微妙の音声で「汝の辛苦が不憫である。われに背負われよ」とお述べになる。
全寿は堅く辞したが、如来は強いて背負いになろうと思ったので、少しの間に当山に着いた。
如来を朽木のうろに入れ奉り、不断の読経を怠らず、藤の衣に肩をかくし、松の葉で命を支え、朝夕の蓄えはないので、香花を供えず、ただ自ら月の明かり、霜の香、須弥の花瓶に法界の水を手向けとした。その木仏とは、今当寺の御本尊である。
まことにこの全寿は尋常の人ではなかった。後に法華経読誦が長時間積もって、飛行自在の仙人となり和州金峰山に飛び移って、法喜菩薩と一体に顕われなさった。当山に住して140年の星霜を経たという。
師岡熊野神社鳥居
師岡熊野神社拝殿
その後、人皇58代光孝天皇の御時、仁和元年(885年)7月、諸国に砂石が降り、稼苗を損す。計り知れず天地振動した。このようなところに、御后妃がこれに驚きになって、ひどい御脳(天子の病)となった。
そうした後、夢の中に貴僧がひとり来て示してお告げになった。
「われは西方安養浄界の弥陀である。天竺、仏生国では証誠権現として顕われ、また日本においては、人皇の始め、神武天皇58年12月に紀伊の熊野村に影向して、熊野権現と名づける。
ここに武州都築郡に仙人がいて、昼夜法華経を読誦する山がある。宝亀3年(773年)8月からすでに140年の間、かの山に行って詣り、三説超過の法味を受けるが、いまだそこには社がない。願わくば后妃よ、我が檀徒とおなりください。そうすれば病は平癒しよう」
目覚めて後、后妃は密かに光孝天皇に奏し奉り、永く檀徒となって霊験を仰ぎ奉りたいという願書を捧げになった。すると、御脳がたちまちに癒えた。
天皇はたいそう感じ入り、武州都築居住の霊山に早々に熊野権現の社を建立せよとの宣旨が下り、すぐに六条の中将有房卿が勅定を受け、神社造営の奉行として当山に下向した。
有房卿は、
「今度、当社建立について、神社をきわめて美麗なものにせよとの勅定を奉った。本社拝殿に金銀をちりばめ、ならびに回廊・末社・本地堂・護摩堂など、ことごとくに珠玉を尽くして建立せよ」と修理職におっしゃった。
この故に仁和元年(885)7月より、同12月上旬までにその功を遂げられた。
有房は、全寿と共に上洛して、事の由を奏上なさった。帝は感じ入り、御宸筆をもって勅願を賜わった。「関東随一霊験所熊野山大権現」と。
また綸旨をくだされた。その文には、
武州都築郡の熊野山の神前で今より以後、宝 長久のお祈りを勤行させるので、この度、勅願所とすべき旨を(事務官)の内侍奉書を下さった。殊に怠慢があってはならない。よって執達、件のごとし。
仁和元年十二月日 別当法華寺権大納言正良 云々
その上、社僧17坊を付けられた。番帳が今もある。また寺山の号は表示に従った。熊野権現のお立ちになった山なので熊野山と号し、また仙人の開山なので全寿院とと号し、仙人が常に法華経を読誦するので法華寺と名づけたのだ。
また社領がなければ退転があるだろうと、近辺6か村寄付された。これによって光孝・宇多・醍醐・朱雀・村上帝まで相続いて勅願所となった。云々。
(てつ)
2011.5.11 UP
2020.9.9 更新
参考文献
- 吉川英男『全寿院法華寺縁起考』