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熊野本宮焼失

熊野山炎上の噂で行事を延期

 建長六年(1254)成立の橘成季編著の説話集『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』に熊野本宮が焼失した火災のことに触れられたお話があります(巻第十三 哀傷第二十一 四六六)。熊野山炎上の噂で京での行事を延期したというお話。

後京極良経曲水宴を催さんと日到らずして薨去の事(現代語訳)

 後京極殿(ごきょうごくどの:後京極良経ごきょうごくよしつね)は詩歌の道にお優れあそばして、寛弘・寛治の昔を忍んで、建永元年(1206)三月に京極殿(旧上東門院第)にて曲水の宴を催そうと思い立ちになられた。

(※寛弘・寛治の昔とは、寛弘四年(1007)三月三日に左大臣道長が上東門院第で催した例と寛治五年(1091)三月十六日に内大臣師通(もろみち。道長の孫)が六条水閣で催した例とを指します。)

 巴(ともえ)の字のように湾曲して水を流し、住吉神社付近の松を引き植えなどして、さまざまにご趣向を凝らしていたが、熊野山炎上の噂が届いたので、三月三日を延期して中の巳(?)を用いられた例もあるといって十二日に行うとお決めになったところ、七日の夜に急にお亡くなりあそばした。人々の秀句はむなしく家に残されました。御歳三十八である。惜しく悲しいことであった。

 定家卿(※藤原定家、このとき45歳)はこのことを嘆いて、家隆卿(※藤原家隆、このとき49歳)のもとへ歌を申し遣わした。

昨日までかげとたのみし桜花 一夜の夢の春の山風

(訳)昨日まで木陰をつくってくれると頼みにしていた桜の花が一夜の夢を見ている間に春の山風に散ってしまったことだ。

 その返歌、

かなしさの昨日の夢にくらぶれば うつろふ花もけふの山かぜ

(訳)昨日良経卿が急逝せられ、夢のような気持ちがしているが、今日も山風に桜の花が散っている。

 後京極殿の御子の前内大臣(※藤原基家。1203~1280。良経の三男)が大納言のとき、三十首の歌を人々に詠ませて撰定なさったとき、慈鎮和尚(※慈円。良経の叔父。天台座主・大僧正)が往事のことを思い出しになって、「水に寄する旧懐」と題して歌をお詠みになった。

思ひ出(いで)てねをのぞみなく行(ゆ)く水にかきし巴(は)の字の春のよの夢

(訳)良経卿のことを思い出して泣いてばかりいる。巴の字のように流れる水に数かくよりもはかないと歌われた春の夜の夢のような人生を思う。

 定家卿が同じ心を、

せく水もかへらぬ波の花のかげ うきをかたみの春ぞかなしき

(訳)せき止めても返らない行く水の波に流されていった花(良経卿)の面影がつらい形見として残っているこの春は何とも悲しいことだ。

 (現代語訳終了)

後京極良経(藤原良経)

 後京極良経(1169~1206)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。藤原良経(ふじわらのよしつね)、九条良経(くじょう よしつね)とも。

 和歌にすぐれ、十九歳の若さで『千載和歌集』に入集、二十五歳で「六百番歌合」を主催、建仁元年(1201)の和歌所開設に当たっては寄人筆頭となりました。『新古今和歌集』では、仮名序を書き、七十九首もの歌を入集させています(入集歌数は西行・慈円に次ぎ第三位)。

 『新古今和歌集』巻第一の第一首目を飾るのが以下の良経の歌。

み吉野は山もかすみて しら雪のふりにし里に春はきにけり(春歌上 1)

(訳)吉野は山も里も霞んでいる。白雪が降っていた里に春が来たのだなあ。

 この話に出てくる「熊野山炎上」は建永元年(1206)二月二十八日にあった熊野本宮の火災のことです。この火災により本宮の社殿は焼失しました。
 このことが都に伝わったのが『一代要記』によると三月三日。そのため、曲水の宴を延期し、三月十二日に行うことに決めたのですが、後京極良経はそれを待たずに突然に三十八歳という若さで三月七日に死去してしまいます。自ら曲水の宴を催そうと思うくらいでしたから、きっと死の予感などというものもなかったのでしょう。人生というものはわからないものです。

 後京極良経は和歌の他にも諸芸に通じていて、とくに書道に秀でていました。その書は法性寺流に新感覚を加えたもので、後に後京極流と呼ばれる書流を形成しました。

熊野の火災についての記事

嘉保三年(1096) 三月十日、熊野本宮焼亡、(『百錬抄』)
元久三年(1206) 二月二十八日、熊野本宮焼失之由、三月三日風聞、今日於中御門殿、可有曲水宴、而依此事、延引来月 、(『一代要記』)
承久三年(1221) 九月十三日子の刻本宮炎上、(『熊野年代記古写』)
貞応二年(1223) (十一月)十九日、熊野那智山焼亡、於本宮火事度々有例、当宮事先規不祥云々、(『百錬抄』)
弘長二年(1262) 同(十一月)一日、熊野悉焼失、(『一代要記』)
文永元年(1264) 十一月二十四日未剋本宮炎上、仮殿作、(『熊野年代記古写』)

(てつ)

2005.8.13 UP
2020.9.9 更新

参考文献