垢離棹とあだ名された男
「垢離棹(こりさお)」とは、垢離を掻くための水桶をかつぐ棹のことです。
垢離を掻く(こりをかく)とは、冷水を浴びて、身と心を清めること。
鎌倉時代の説話集『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』にこんな話があります(巻第一 神祇第一 19)。
徳大寺実能の熊野詣と随行の垢離棹の事(現代語訳)
いつ頃のことか、徳大寺の大臣(※藤原実能 ふじわらのさねよし)が熊野へお参りなさった。讃岐の国(※今の香川県)をお治めなさっていた頃であったので、かの領国から人夫を多く召しのぼらせていたが、人数が多く余るほどだったので、少々帰し下されることとなった。
それを、ある人夫の一人がしきりに嘆いて、
「国司様の高い徳によって幸いにも熊野の御山を拝み奉ることを喜び思っていたのに、余り組に入れられて帰り下ることは悲しいことです。どうかぜひともご随行させてください」
と指図をしている人に言ったところ、
「そういっても人数が余っているので、そのようにやたら連れていっても何の用になろうか」
と言ったので、泣き泣き哀願して、
「ただ御功徳に食事だけを与えてください。報酬なしでどのようにもお仕えいたしますから」
と丁寧に申したので、哀れんで連れておいでになった。
ほんとうにかいがいしく宿々では人が命令もしないのに、みんなの垢離の水をただひとりで汲んだので、「垢離棹」と名付けて、人々もかわいがった。
さて、大臣が本宮にお着きになって、奉幣を終えて、証誠殿(しょうじょうでん:本宮の本殿)の御前で通夜して、無事に参詣できたことを喜んで、大臣の身でありながら、藁沓(わらぐつ)に脚絆(きゃはん)を身に付けて、長い道のりを歩いて参ったのは、なかなかできない稀なことであると、心中に思われて、ちょっとまどろんで見た夢に、御殿より高僧が出ていらして仰せられたのには、
「大臣の身に藁沓脚絆で参ったことを稀なことであると思われているが、この山のしきたりは、上皇でも皇族でもみなが従う作法である。特別にあなただけがそう思われるべきことでもない。垢離棹は殊勝に思うぞ」
と、仰せられるのと見なさって、目が覚めた。
驚きかしこみて、その棹のことを尋ねられると、かくかくしかじか初めから事の次第を申し上げたので、哀れみなさって、領国に屋敷などを子孫末代までと決めてあてがわれた。
いやしい下臈であるけれども、誠意を尽くせば、神様はこのように哀れみなさるのである。
(現代語訳終了)
熊野詣は精進潔斎の道
京から熊野までは往復およそ20日から1ヶ月。熊野詣は苦行の旅であり、精進潔斎の道でした。
後白河上皇撰述の歌謡集『梁塵秘抄』に、
熊野へ参らむと思へども
徒歩(かち)より参れば道遠し すぐれて山きびし
馬にて参れば苦行ならず
空より参らむ 羽賜(た)べ 若王子
とあるように、馬や輿を用いては苦行にならないので、徒歩で行くことが原則とされました。
また、熊野は辺境の山岳地帯にあり、参詣には道案内人が必要とされ、それを山伏がつとめたので、道中は山伏の指導する作法に従って、精進潔斎に努めなければなりませんでした。
先達(せんだつ。案内人の山伏のことをいいます)の指導のもと、参詣者たちは日々の精進潔斎に励みました。
道中、所々で祓えをし、海辺や川辺では垢離を掻き、王子社では幣を奉り、経供養などを行いました。
熊野権現の御利益は貴賤男女の差別なくあらゆる人々に施されるものだとされましたが、しかし、それはひたむきに信心し、精進する者の上に与えられるものなのでした。
(てつ)
2002.10.12 UP
2020.4.19 更新
参考文献
- 西尾光一・小林保治 校注『古今著聞集 (上)』 新潮日本古典集成
- 榎克朗『梁塵秘抄』 新潮日本古典集成