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太地の鯨捕り、天狗源内

井原西鶴の浮世草子に描かれた太地の鯨捕り

 井原西鶴(いはらさいかく。1642~1693)の浮世草子(うきよぞうし。町人の世態・人情を描いた経済小説)『日本永代蔵』の巻二の「天狗は家名の風車(てんぐはいえなのかざぐるま)」に、天狗源内という太地の鯨捕りのことが書かれています。

 「天狗は家名の風車」というタイトルは、天狗はあだ名などではなく家名(いえな:家の呼び名。姓や屋号など)で、その家の紋は風車ということ。全文現代語訳してご紹介いたします。

天狗は家名の風車(現代語訳)

 智慧の海広く、日本の人の働きをみて、渡世の道にうとい唐の白楽天が逃げて帰ったことはおもしろい。詩は耳遠く、日本の人はもっぱら歌に耳を傾けるのだが、横手ぶしといった小歌の出所を尋ねたところ、紀路の大湊、泰地(たいじ:太地)という里の出身の妻子が歌っていた。

 この泰地という所は繁昌していて、若松が群生したなかに鯨恵比寿の宮を祭り、鳥居にその鯨の胴骨を立てているが、高さは3丈(※約9m)ほどもあったろう。見慣れずに、これにあきれて、浦の人に尋ねたところ、「この浜に、鯨突の羽指(はざし:鯨を鯨網に追い込む勢子船の船長※)の上手に、天狗源内といった人がいた。

 毎年、幸せ男(※漁獲が多く縁起のよい男)で、昔、この人を雇って船を仕立てて鯨組を作ったところ、あるとき沖に一むらの夕立雲のように潮を吹いているのを目がけ、天狗源内が一の銛を突いて、風車の標識をあげたので(※鯨を打ち留めると船首へ組の標識を掲げる)、また、天狗の組(※天狗源内は風車を家の紋とした)だとわかった。人々が波のような声をそろえて、笛・太鼓・鉦の拍子をとって、大綱をつけて轆轤(ろくろ:重いものを綱や鎖をかけて、引き上げたり動かしたりする装置)で巻いて、磯に引き上げたところ、その長さ33尋2尺6寸、セミという名の、前代にためしのない今が見始めの大鯨であった。

 7郷のにぎわいで、竃の煙が立ち続き、油をしぼって数えきれないほどの樽に満たす。その実、その皮、ひれまで捨てるところなく、長者になるには捕鯨である。肉や皮を切り重ねた有様は、山のない浦には珍しく、雪の富士・紅葉の高雄をここに移したかのようだ。いつもは捨て置く骨を、源内はもらい置いて、これを粉末にさせ、また油をとったところ、思いの外の利得により財産家になり、下々の人のため、かなりのことであるが、今まで気が付かないのが愚かである。

 近年工夫をして、鯨網をこしらえ、見つけ次第に取り損なうことなく、今浦々でこれを仕出した。昔は浜庇の住まいしていたが、檜造りの長屋、200余人の猟師をかかえ、舟だけでも80艘、どんなことをしても調子よく事が進んで、今は巨万の金銀の蓄えができて、使っても減らず、基礎確実な安定した裕福者、これを「楠木分限(くすのきぶんげん:クスノキは地中深く根を下ろし四方にはびこり、年を経て徐々に大木になる。堅実な財産家をいう喩え)」といった。

 信あれば徳ありと、仏につかえ神を祭ることはおろそかにしない。なかでも西の宮(※兵庫県西宮市広田の西宮神社、えびす宮総本社)をありがたがり、毎年正月10日には、人より早く参詣するが、去年は祝いの酒に前後を忘れ、ようやく明け方から 持ち船の20梃立を全速力で漕がせて行くが、いつもの年より遅いことを何となく気がかりに思っていたところ、年男の福太夫という家来がもったいぶった顔つきで申し出したのは、「20年来このかた、朝えびすにお参りになるのに、今年は日の入り、旦那の身代も提灯ほどの火がふらふ」と、思いもよらない無駄口。

 いよいよ気がくしゃくしゃして脇差しに手は掛けたが、ここが思案と心を鎮めて、「春の夜の闇を、提灯なしには歩かれまい」と、足を伸ばし胸をさすって、苦笑いの中、早船を広田の浜に付けて、心静かに参詣したが、松原はさびしく、参道の常灯の光はかすかで、行き違う人はみな下向の人ばかりで、参るのは我より他になく、心をせかせて神前にさしかかると、「お神楽」というが、社人(しゃにん:下級神職)は車座に座って、賽銭の勘定にかかって誰の彼のと譲り合って、巫女が舞い終わった時分に申し訳ばかりに鼓だけ打って、そこそこにかたがつき、鈴も遠くから振って参詣人を祓い清めて仕舞われた。

 神のことではあるが、少し腹が立って、末社巡りもいい加減に済まして、船に取り乗り、袴も脱がずにうたた寝して、いつとなく寝入ったところ、あとからえびす殿が烏帽子が脱げるのも構わず、たすきをかけて袖をまくり、片足を上げて、岩の鼻から船に乗り移りになって、神々しいお声で
「やれやれ、よいことを思い出していてから、忘れたは。この福を、いずれの猟師であるとも、気分に任せて、語り与えようと思うが、今の世の人の心はせわしなく、自分の言うことだけを言って、神拝もお座なりに済まして立ち去っていくので、何かを言って聞かす間もない。遅く参ったのは汝の幸せだ」と源内の耳元に口を寄せられ、ささやき語ったのは

「魚嶋時(うおじまどき:陰暦の3、4月頃。鯛の豊漁期)に限らず、生船(いけぶね:魚を生かしたまま輸送する船)の鯛を、どこの国までも無事に着ける方法がある。弱った鯛の腹に鍼を立てる所がある。尾さきから3寸ほど前を、尖った竹で突くとたちまち元気になる。この鯛の治療は新しいことではないか」とお語りになると夢から覚めて、「これは世の例にもなる、新工夫だ」とお告げのままにしてみたところ、鯛を殺さない。これでまた利を得て、幸せのよい時津風(※ときつかぜ:良いタイミングで吹く追い風)、真艫(※まとも:船の真後ろ)に追い風を受けて順調に家業を繁昌させた。

 (現代語訳終了)

鯨恵比寿の宮の鯨骨の鳥居

鯨骨鳥居

 鯨骨の鳥居は鯨恵比寿の宮(現・恵比寿神社)に再現されたものがあります。今のものは1丈(約3m)ほどの高さなので、西鶴の時代の1/3ほどの高さです。

 天狗源内という人物については不詳。

 鯨関連の熊野の説話
 熊野の名産品:太地のクジラ

(てつ)

2010.7.24 UP
2020.7.6 更新

参考文献