大逆事件の犠牲者、高木顕明の命日
高木顕明
不明 - Michael Pye (2011) Beyond Meditation: Expressions of Japanese Shin Buddhist Spirituality, p. 252, パブリック・ドメイン, リンクによる
6月24日は、大逆事件の犠牲者、幕末生まれの明治時代の僧侶、高木顕明(たかぎ けんみょう)の命日です。
でっち上げの大逆罪で無期刑に処され、秋田監獄に送られて3年後の大正3年(1914年)6月24日に高木顕明は獄中で自殺しました。
この日は悲しくも太陽暦では高木顕明の満50歳の誕生日でした。
大逆事件
明治43年(1910年)5月以降、多数の社会主義者・無政府主義者たちが明治天皇暗殺計画を企てたとして検挙され、翌年24人が大逆罪により死刑または無期刑に処せられた「大逆事件」。大逆罪とは、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加える事を指した罪名で、適用される刑罰は死刑のみでした。
公判、刑執行は異例の速さで進められ、明治44年(1911年)1月18日に24人が死刑判決、2人が有期刑判決を受けました。死刑判決を受けた24人のうち6人が熊野人でした。
死刑判決を受けた24人のうち11人が判決の6日後の1月24日に死刑執行されました。翌25日にはもう1人(管野スガ)が死刑執行され、残りの12人は特赦で減刑されて無期刑となりました。熊野人6人のうちでは大石誠之助、成石平四郎の2人が死刑、他の4人は無期刑に処されました。
熊野地方から逮捕され、刑に処された6人の名前は以下の通り。大石誠之助(和歌山県新宮町・死刑)、成石平四郎(和歌山県請川村・死刑)、高木顕明(和歌山県新宮町・無期刑)、峯尾節堂(和歌山県新宮町・無期刑)、崎久保誓一(三重県市木村・無期刑)、成石勘三郎(和歌山県請川村・無期刑)。
この「大逆事件」は、社会主義を恐れた政府が社会主義者たちを一網打尽にするために仕組んだ謀略でした。高木顕明は幸徳秋水や大石誠之助らと交流があったことから、明治天皇暗殺計画に関与したとでっち上げられて逮捕されました。
高木顕明
高木顕明は真宗大谷派の僧侶。和歌山県新宮市の浄泉寺12代住職。
高木顕明は元治元年5月21日(1864年6月24日)、尾張国西春日井郡下小田井村(現・愛知県清須市)の商人の家に生まれました。
小学校の教員を1年勤めたのち、僧侶を志して真宗大谷派の学校、尾張小教校(現在の名古屋大谷高等学校)に入学し、修了して住職になる資格を取得しました。卒業後は名古屋の真宗大谷派の寺院を転々とし、その後、新宮の浄泉寺の住職に就任しました。
高木顕明は親鸞聖人を敬慕し、その教えを誠実に実践しようとしました。
詮ずるところ余は南無阿弥陀仏には、平等の救済や平等の幸福や平和や安慰やを意味していると思う。しかしこの南無阿弥陀仏に仇敵を降伏するという意義の発見せらるるであろうか。
(高木顕明「余が社会主義」)
阿弥陀仏の慈悲に差別はありません。浄土真宗、親鸞聖人の教えは、すべての人が平等であるという考えに基づいています。
富豪のためには貧者は獣類視せられているではないか。飢えに叫ぶ人もあり、貧のために操を売る女もあり、雨に打たるる小児もある。富者や官吏はこれを玩弄物視し、これを迫害し、これを苦役して自ら快としているではないか。
(同上)
差別根絶を願い、公娼制度にも反対しました。
極楽世界には他方の国土を侵害したということも聞かねば、義のために大戦争をしたということも一切聞かれたことはない。よって余は非開戦論者である。戦争は極楽の分人のなすことでないと思うている。
(同上)
日露戦争に際しては国内の仏教各宗派は国家に追従し、戦争協力の姿勢を示しました。高木顕明が属する真宗大谷派も親鸞聖人の教えにないことを聖人の教えと誤魔化して、国家の戦争遂行に積極的に協力しました。
それに対して高木顕明は「戦争は極楽の分人(極楽浄土を求める人)のなすことではない」と、戦争協力に反対しました。差別と戦争に対して、高木顕明は親鸞聖人の教えに基づいて真っ直ぐに平等と平和を唱えたのです。
高木顕明の公判が始まると、真宗大谷派は住職を罷免し、死刑判決を受けると、僧籍を剥奪して宗門から追放しました。
高木顕明の僧籍剥奪から80余年を経た平成7年(1995年)、真宗大谷派は宗議会(僧侶からなる議会)と参議会(信徒からなる議会)で、自己の戦争責任を懺悔し、不戦の誓いを表明する「不戦決議」を採択しました。その翌年、平成8年(1996年)4月1日に真宗大谷派は高木顕明の僧籍剥奪処分を取り消し、高木の名誉を回復しました。
(てつ)
2024.4.8 UP
参考文献
- 大東仁『大逆の僧高木顕明の真実―真宗僧侶と大逆事件』風媒社
- 辻本雄一『熊野・新宮の「大逆事件」前後―大石誠之助の言論とその周辺』論創社