松尾芭蕉の熊野関連の俳諧
松尾芭蕉像(葛飾北斎画)
江戸時代前期の俳諧師、松尾芭蕉(まつおばしょう。1644~1694)の熊野関連の俳諧を1句。
芭蕉とその門人の連句を収める俳諧撰集『ひさご』より。『ひさご』は門人の浜田珍碩(はまだちんせき)による撰集で、元禄3年(1690年)刊。
熊野みたきと泣(なき)玉ひけり (22)
(訳)熊野が見たいとお泣きになった。
弟子の曲水の「羅(うすもの)に日をいとはるゝ御かたち」を受けた芭蕉の句。
うすぎぬをかざして日射しをお厭いになるお姿。この句から連想して、その旅姿の高貴な女性が「熊野が見たい」と泣く場面を芭蕉は思い浮かべて、この句を詠みました。
旅に生き、旅に死した芭蕉ですが、熊野を訪れることはなかったようです。
その代わりといっては何ですが、門弟の服部嵐雪(はっとりらんせつ。1654~1707)や河合曾良が熊野を詣でています。
松尾芭蕉について
古池や蛙(かはづ)飛(とび)こむ水のをと
閑(しづか)さ岩にしみ入(いる)蝉の声
夏草や兵共(つはものども)がゆめの跡
などの句が有名で、現在、芭蕉の句を刻んだ句碑が全国に数百と存在するという、伝説と化した誹諧師。
出生地は伊賀上野(今の三重県伊賀市)。京に出て、北村季吟(きたむらきぎん)について俳諧を学んだ後、江戸に移って、宗匠となりました。芭蕉の一派を蕉門(しょうもん)といい、蕉門は、蕉風と呼ばれる芸術性の高い俳風を確立しました。
芭蕉は、しばしば旅に出て、『野ざらし紀行』『笈の小文』『更級紀行』などの紀行文を残し、奥羽・北陸へは弟子の河合曾良を伴って大旅行をし、『おくのほそ道』を著わしました。
『おくのほそ道』の冒頭に、
月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行(ゆき)かふ年も又旅人也。船の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるもあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、……
とあるように、芭蕉が敬慕した古人たち(西行や宗祇や李白、杜甫)のように、旅に生きた芭蕉。その死もまた、敬慕した古人たちのように、旅の途中での客死でした。
大坂御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門方で残した辞世の句がまた素晴らしいです。
旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻る
元禄7年10月12日(1694年11月28日)没。享年51(満50歳)。
(てつ)
2005.7.24 UP
2019.10.12 更新
参考文献
- 日本古典文学大系『芭蕉句集』岩波書店
- 乾克己・小池正胤・志村有弘・高橋貢・鳥越文蔵 編『日本伝奇伝説大事典』角川書店