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端唄「紀伊の国」

幕末から明治にかけての流行歌


端唄:紀伊の国 藤本二三吉・小靜[三味線] コロムビア 1934年9月発売

 幕末から明治のころに『紀伊の国』という端唄(はうた。技巧の少ない短い俗謡)が全国的に流行しました。

紀伊の国は 音無川の水上に 立たせたまふは
船玉山(せんぎょくさん) 船玉十二社 大明神
さて東国にいたりては 玉姫稲荷が 三囲(みめぐり)へ 狐の嫁入り
お荷物を 担へは 強力(ごうりき)稲荷さま
頼めば田町の袖摺も さしづめ今宵は待ち女郎
仲人は真前(まっさき) 真黒九郎助(まっくろくろすけ)稲荷につまされて
子まで生(な)したる信太妻(しのだづま)

舟玉神社

 この歌に歌われる船玉十二社大明神は、音無川の上流、本宮町の発心門(ほっしんぼ)という集落のもっと奥、熊野古道中辺路の猪鼻王子(いのはなおうじ)近くにある舟玉神社(ふなたまじんじゃ)のことではないかと思われます。舟玉神社は船の神様を祭った神社です。

 山のなかです。近くに音無川は流れてはいるけれど、「なぜこんなところに船の神様が?」と思うような場所にあります。しかし、そもそも山の木がなければ船は作れませんでした。

舟玉神社の由来

 昔、玉滝という滝つぼがあって、その淵に1枚の木の葉が落ちて浮かんでいた。そこに蜘蛛が降りてきて、ちょうどその木の葉の上に乗った。折よく風が吹き、木の葉が流されて岸に辿り着き、蜘蛛は岸によじ登って、命を救われた。
 その様子を神様が見て、船というものを思い付き、楠をくりぬいて丸木船を造った。これが最初の船であった。

 発心門では、舟玉神社は本宮大社の奥の院にあたると伝えられてるということです。

 舟玉神社から本宮大社へ、「みよろの星」というきれいな星が、音無川をかよった。

 という話もあったそうです。だから音無川のほうを向いて小便してはいけなかったとか(もともと本宮大社は、明治22年の大洪水に遭うまで、熊野川・音無川の合流点にある中州にありました)。
 舟玉神社の隣には玉姫稲荷がまつられ、夫婦神ともいわれているそうですが、玉姫稲荷は月に1回、玉置山(たまきさん。奈良県十津川村。「熊野三山の奥の院」ともいわれる玉置神社がある)に行くということです。この玉姫稲荷は端唄『紀伊の国』流行後に祀られたものだと思われます。

 左が船玉神社、右が玉姫稲荷。

なぜ全国的に流行したのか

 この歌の全国的な大流行のおかげで、辺鄙な山奥にある小さな神社にもかかわらず、船玉神社は全国的にその名を知られるようになりました。

 歌を作ったのは江戸詰の新宮藩士、関匡(ただす)と玉松千年人(ちねと)という二人であったらしい。
 船玉神社は、熊野川河口、新宮対岸の鵜殿(うどの)の船乗り衆の信仰する船の守り神であったので、新宮藩士の二人も、船玉神社に対する船乗り衆の信仰の篤さを知っていたのでしょう。

 しかし、それにしても、いったいなぜ鵜殿の船乗り衆は熊野灘から遠く離れたあんな山奥に自分たちの船の神様を祀ったのでしょうか。もっと近いところの山中ではいけなかったのか。なぜなのでしょう?

 さて、なぜ端唄『紀伊の国』は全国的に流行したのか。

 「さて東国にいたりては」以降、玉姫稲荷、囲稲荷、強力稲荷、田町の袖摺稲荷、真前稲荷、九郎助稲荷と、いくつもの稲荷さまが詠み込まれていますが、これはみな、じつは江戸吉原周辺にある稲荷社なのです。

 この歌がなぜ流行したのかというと、吉原のことを歌っているからなのです。
 吉原は御免色里。江戸の階級的封建社会のなかにあって、吉原は特別な場所でした。吉原では、武士も町人もありませんでした。吉原のなかでは、どんな身分のものであろうと、ひとりの人として認められました。階級差別を認めない、人を人として認める。江戸時代の社会的制約から遊離した自由な世界だったのです。自由を求めるのは人の性。吉原は江戸時代の人にとって憧れの場所だったのです。

 吉原に遊んだことのある者は、玉姫、囲、強力、田町の袖摺、真前、九郎助稲荷と聞くだけで吉原を連想し、胸をときめかせたことでしょう。
 この唄は、吉原で芸者らに歌われ、江戸中の人気をさらい、参勤交代を通して全国に広がっていきました。

 岩手県釜石市の御船祭にうたわれた船歌には、

紀の国の音無川の水上に、船玉十二社大明神、ホホヨー、ハアヨイハアーヨイ

 という歌詞があるそうです。当然、端唄『紀伊の国』から採られたものでしょうけれど、その流行の広がりには、テレビもラジオもない時代としては、驚異的のものがあります。

船玉十二社大明神は熊野本宮大社の異名とも

 熊野本宮大社のことを船玉十二社大明神と呼ぶという説もあり、「音無川の水上」という地理に当てはまらないため無視してきたのですが、熊野川のことを新宮辺では「新宮音無川」ということもあったらしく、そうすると、熊野川上流にあった熊野本宮大社が船玉十二社大明神でもおかしくないということになります。

 明治の大水害で被害を受けるまでは、熊野川・音無川・岩田川の合流点にある中洲に熊野本宮大社はあり、かつての本宮大社を大河に浮かぶ船のように見ることもできたでしょう。
 もともと船玉十二社大明神は熊野本宮大社の異名であり、それが端唄『紀伊の国』の流行で、音無川上流にあった神社が「船玉神社」という名称で呼ばれるようになったというのが実際であったのかもしれません。

 ついでながら、奈良時代、熊野は良船の産地として知られていました。
 『万葉集』二十巻4500余首のうち、「熊野」という語を含む歌は4首あり、そのうちの3首が「熊野の船」のことを歌っています。

端唄「紀伊の国」の作者:雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』:み熊野ねっと分館

(てつ)

2003.3.5 更新
2020.3.29 更新

参考文献