み熊野ねっと 熊野の深みへ

blog blog twitter facebook instagam YouTube

万葉集

万葉集の熊野関連の歌

「熊野」という語を含む歌

 『万葉集』二十巻4500余首のうち、「熊野」という語を含む歌は4首あります。

1.万葉時代最大の歌人、柿本人麻呂の歌

み熊野の浦の浜木綿 百重なす心は思へど 直に逢はぬかも

柿本人麻呂/巻第四 相聞 496・新499)

(みくまののうらのはまゆふ ももへなすこころはおもへど ただにあはぬかも)
熊野の浦の浜木綿の葉が幾重にも重なっているように、幾重にも幾重にも百重にもあなたのことを思っていますが、直接には会えないことだ。

み熊野

 「み熊野」の「み」は神のものを表わす接頭語。「み」が冠された地名は古代では「み熊野」と「み吉野」と「み越路〔みこしじ:越の国(越前・越中・越後の三国)〕」の3つ。神聖な土地に「み」が冠されました。「み」にはその土地に対する畏敬や憧憬の念が込められています。

2.柿本人麻呂と並び称される大歌人、山部赤人(やまべのあかひと)の歌

島隠り我が漕ぎ来れば 羨しかも 大和へ上るま熊野の船

(山部赤人/巻第六 雑歌 944・新949)

(しまがくりわがこぎくれば ともしかも やまとへのぼるまくまののふね)
島陰を伝って私が漕いで来ると、うらやましいことだ。なつかしい大和へ向かって上っていく熊野の船がいるよ。

3.『万葉集』編纂に関わったとみられる大伴家持の歌

御食つ国志摩の海人ならし ま熊野の小船に乗りて沖辺漕ぐ見ゆ

(大伴家持/巻第六 雑歌 1033・新1037)

(みけつくにしまのあまならし あまのをぶねにのりておきへこぐみゆ)
天皇に御食料を奉る国、志摩の海人であるらしい。小さな熊野舟に乗って、沖を漕いで行くのが見える。

4.作者不詳の歌

浦廻漕ぐ熊野舟つき めづらしく 懸けて思はぬ月も日もなし

(巻第十二 羇旅発思 3172・新3186)

(うらみこぐくまのぶね〔or な〕つき めずらしく かけておもはぬつきもひもなし)
浦近くを漕ぐ熊野舟の姿形は「珍しい」が、「愛(め)ずらしい〔=愛らしい〕」妻のことを心に懸けて思わない日はない。

熊野の船

 4首のうちの3首が「熊野の船」のことを歌っています。「ま熊野の船」「ま熊野の小船」「熊野舟つき」。

 奈良時代、熊野は良船の産地として知られていました。クスノキをくって造った頑丈な丸木船です。
 良材に恵まれた山と黒潮流れる海。
 このふたつの近さが熊野に造船技術や航海術を発達させたのでしょう。
 関東平野などに暮らしていると山は山で海は海という感じで全然別々の離れたところにあるものですが、熊野では山からいきなり海になる。山が海にまで迫っている。そのような感じです。

 船材にはスギとクスが使われたようですが(『日本書紀』には「スギとクス、この2つの木は船を造るのによい」とのスサノオの言葉があります)、特にクスのほうが船材として優れているそうです。
 クスは、スギにくらべてはるかに重く堅い。そのため、クスの丸木船はスギの丸木船にくらべて、その重さにより波に対する安定性にすぐれ、また、その堅さにより長年の使用に耐えうるそうです。

ま熊野の船・ま熊野の小船

 「熊野の船」の歌では熊野に冠された接頭語は「み」ではなく「ま」にされています。

 「ま熊野」の「ま」は完全であることを表す接頭語であると思われます。熊野で造られた船の優れた性能に対して与えられたものなのでしょう。

 神様の土地である「み熊野」と、完全な船である「ま熊野の船」。熊野にかかるか、熊野の船にかかるかの違いで「み」と「ま」が使い分けられているのだと思います。


熊野舟つき

 完全な船であると賞賛された「ま熊野の船」はどのような姿形をしていたのでしょうか。

 4つめの歌の「浦廻漕ぐ熊野舟つき」は「めづらし」を起こす序だということなので、「熊野舟つき(熊野船の姿形)」は「めづらし」いものでした。熊野の船は普通ではない姿形をしていました。

 丸木船は、丸木をくったそれだけでは簡単に横転してしまいます。これを防ぐためには、アウトリガーを付けてその先端にアウトリガー・フロートを付けるか、あるいは、2艘の船を横に並べて結びつけるか。この二つの方法があります。
 縄文時代の丸木船は、脇にフロート(浮き)を付けたアウトリガーカヌーのようなものだったそうですが(その丸木船で南米エクアドルまで辿り着くことができたらしい)、奈良時代の熊野船はどのような形をしていたのでしょうか。アウトリガー・カヌーか、双胴船か。それとも、それらとは違う別の形だったのか。どなたか、教えてくださいませんか?

アウトリガーカヌーについて

 「鎌倉OUTRIGGER CLUB」というクラブに所属するFさんという方からこのようなメールを頂きました。

 熊野のサイト、拝見しました。

 私共では古代日本の航海術を探るべく活動しています。
 現在はハワイとマオリのアウトリガーカヌーを持ってきて、日本では失われてしまった航海術の習得に励んでいます。

 ハワイを初めとしたポリネシアやミクロネシアでも、丸太の刳舟が多く見られま
す。丸太を使うというのは、筏から派生したと考えられているようです。
 つまり、複数の丸太を組んで安定性や浮力の高い筏を作るとこから始まり、そのうち、航行性能を高めるために流線形に削った本体と、安定性を確保するだけの細い浮力体部分を持つ形状へ進化していったというのです。

 これがアウトリガーカヌーやダブルハルカヌーと呼ばれるものですね。
 しかも、これらの舟の特徴は、船尾舵を持たないことです。
 このようなタイプの舟のコントロールは、結構大変です。
 僕等も、この技術を習得するのに1年近くを要しました。

 古代の日本の舟も、これに近いものだったと思うのですが、、、

 Fさん、メールありがとうございます。
 「鎌倉OUTRIGGER CLUB」のHPはこちら

 「鎌倉OUTRIGGER CLUB」のHPで、アウトリガーカヌーのフロートは左舷のみに取り付けられているということを知りました。
 私はてっきり両側に付けられているものと思っていましたので、左舷のみに取り付けられるのが一般的なのか、なぜ右舷ではなく左舷なのか、疑問に思い、Fさんに質問してみました。
 Fさんからはとても丁寧なお答えをいただきました。

 元々は両側にあったものと考えられます。
 今でもインドネシアやバリで見られるアウトリガーカヌーは両側にフロート(AMA)がついています。ただし、これらのダブルアウトリガーカヌーは波の無い内海での使用に限られているようです。

 西へ移動したサモアやトンガでは、既にAMAが左舷のみになっています。この理由は外海を航行する際、両サイドにAMAがあると波の谷間に入った時に両サイドのAMAの間に本体がぶら下がる感じになってしまい、容易に破損してしまうからです。片側だけであれば傾くことで波をやり過ごせます。

 また、アウトリガーカヌーの原形は左舷にAMAがあったというよりは、前後の区別が無いものです。セールを付けて帆走する時に、常に風上側にAMAが位置するようになっています。このタイプのカヌーは今でもミクロネシアやサモアなどで見ることができます。

 これが徐々に進化して前後の区別がつくようになり、タヒチやニュージーランド、ハワイへ広まった時点では左舷のみにAMAを取付ける様になりました。

 具体的な理由は見当たりませんが、左右の船体が同じ大きさのダブルハルカヌーの場合、右舷側には女性の神、左舷側には男性の神が宿るとされています。この辺が関係あるのではないでしょうか?

 「めづらし」を起こす序だという「熊野舟つき(熊野船の姿形)」。 いったい熊野船はどのような姿形をしていたのでしょうか。

三輪の崎、狭野

 さて、話を『万葉集』に戻して、『万葉集』に「熊野」以外の語で熊野にある地名がないかと探してみると、ありました。「三輪の崎(みわのさき)」と「狭野(さの)」。所在未詳でいくつか説があるようですが、和歌山県新宮市内にある三輪崎および佐野ではないかと考えられます(三輪崎は「みわさき」と読みます)。

5.柿本人麻呂とともに万葉第2期を代表する宮廷歌人、長忌寸意吉麻呂の歌

苦しくも降り来る雨か 三輪の崎 狭野の渡りに家もあらなくに

長忌寸意吉麻呂/巻第三 雑歌 265・新267)

困ったことに降ってくる雨だ。三輪崎の佐野の渡し場には、雨をしのげる家もないのに。

 長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)のこの歌を本歌として、のちに藤原定家が「駒(こま)とめて袖うちはらふかげもなしさののわたりの雪の夕暮(ゆふぐれ)」(『新古今和歌集』巻第六671)という歌を詠みました。
 定家のこの歌の詞書は「百首歌たてまつりし時」。
 定家はこの歌を空想で詠んだのでしょう。美しいイメージは浮かぶのですけれど、本歌のもつ臨場感がないような気がします。長忌寸意吉麻呂の歌のほうがはるかに人の心に訴えてくるものがあるように思います。

6.もう一首「三輪の崎」の登場する歌。作者不詳

三輪の崎荒磯(ありそ)も見えず波立ちぬ いづくゆ行かむ 避き道(よきじ)はなしに

(巻第七 雑歌 1226・新1230)

三輪の崎の荒磯も見えないくらいに波が立ってきた。どこを通って行こうか、避けて通る道もないのに。

 新宮市の三輪崎から佐野にかけての海岸沿いにある黒潮公園にはこれらの歌の碑が建っています。
 また、三輪崎の海岸近くの孔島(くしま)という、浜木綿の群生地として知られる小さな島には、このページの冒頭に挙げた柿本人麻呂の歌の碑もあります。

玉の浦

 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の「玉の浦」が登場する歌もありました。

7.作者不詳、「羇旅(たび)にして作る歌九十首」のうちの1首

荒磯(ありそ)ゆもまして思へや 玉の浦の離れ小島(こしま)の夢(いめ)にし見ゆ

(巻第七 雑歌 1202)

荒磯よりもいっそう心惹かれたからか、玉の浦の離れ小島を夢にまで見えることだ。

8.作者不詳、「紀伊国にして作る歌二首」のうちの1首

わが恋ふる妹(いも)は会はさず 玉の浦に衣片敷き ひとりかも寝む

(巻第九 雑歌 1692)

私が恋しく思うあなたは会ってくださらない。玉の浦に着物を敷いて一人寝することであろうか。
「衣片敷く」とは、二人でそれぞれの衣を敷いて二人で寝るというのではなく、自分の衣だけを敷いて一人で寝るということ。一人寝の侘しさを表現している。

人国山、岩倉の小野、秋津野

 他に熊野地方の地名だと考えられるのは「人国山(ひとくにやま)」と「岩倉の小野」と「秋津野(あきづの)」。
 「人国山」は和歌山県田辺市上秋津にある人国山、「岩倉の小野」は田辺市秋津町の宝満寺のある岩倉山かと考えられます。
 「秋津野」は和歌山県田辺市秋津町説と奈良県吉野郡説があり、熊野と吉野の両方に「秋津野」があったと考えるのが妥当なようです。ここでは熊野の「秋津野」と思われる歌のみをご紹介します。

9.作者不詳

見れど飽かぬ人国山の木の葉をし 我が心からなつかしみ思ふ

(巻第七 譬喩歌 木に寄する 1305・新1309)

いくら見ても飽きることのない人国山の木の葉を私は心の底からなつかしく思うことだ。
人国山の木の葉とは、人妻のこと。人妻に恋をしてしまった男の歌。

10.作者不詳

常ならぬ人国山秋津野のかきつはたをし 夢(いめ)に見しかも

(巻第七 譬喩歌 草に寄する 1345・新1349)

人国山の秋津野に生えるかきつばたを夢に見たことだ。
人国山のかきつばたとは人妻のこと。これも人妻に恋をしてしまった男の歌。

11.作者不詳

岩倉の小野秋津に立ちわたる 雲にしもあれや 時をし待たむ

(巻第七 譬喩歌 雲に寄する 1368・新1372)

岩倉の小野から秋津にかけて立ちわたる雲でもないのに、あなたは時が来るのを待つのですか。

12.作者不詳

秋津野を人の懸くれば 朝撒きし君が思ほえて嘆きはやまず

(巻第七 挽歌 1405・新1409)

秋津野という言葉を人が口にすると、朝、遺骨を撒いたあなたのことが思われて、嘆きはやまないことだ。

13.作者不詳

秋津野に朝居(ゐ)る雲の失せゆけば 昨日も今日もなき人思ほゆ

(巻第七 挽歌 1406・新1410)

秋津野に朝から立ちこめていた雲が消えていくと、昨日も今日も亡くなった人のことが思われることだ。 
雲を火葬の煙に見立てた歌。

 12・13の歌から熊野の「秋津野」は、火葬の場所であったことが推察されますが、実際、田辺市秋津町近辺からは火葬墳墓跡や窯跡が発見されています。

(てつ)

2001.5 更新
2003.3.1 更新
2003.3.21 更新
2003.6.1 更新
2020.2.21 更新
2021.8.4 更新

参考文献