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川上不白の俳諧

新宮出身、江戸千家の開祖、川上不白

川上不白顕彰碑

 川上不白(かわかみ ふはく、1719~1807)の生まれ古郷の新宮市には、川上不白関連の遺物はあまりありませんが、本廣寺には不白建立の「書写妙法蓮華経印塔」があります。また丹鶴城趾には地元の有志が建てた「清風生蓬莱」と刻んだ不白顕彰碑があります。右の写真は丹鶴城趾の不白顕彰碑。

 江戸時代の茶人で、「江戸千家流」の祖となった川上不白。
 川上不白は、享保4年(1719年)、紀州新宮藩士川上五郎作の次男として新宮に生まれました。

 16歳のときに京都の表千家に入門。表千家の中興の祖といわれる七代如心斎宗左に師事。25歳のとき、現在行なわれている茶道の基盤をつくった七事式の制定に参画。

 31歳のとき真台子の伝授を受け、如心斎宗左の命令で江戸に赴き、江戸で表千家流茶道の普及に尽力。千家流は江戸で一大ブームとなりました。
 文化4年(1807年)10月4日、江戸の蓮華庵で没。享年90。

 不白の茶は江戸の武家階級や町人階級の間で人気を博し、不白が亡くなった後に不白を祖とする江戸千家という流派が誕生しました。詳しくは、表千家不白流公式サイトをご覧ください。

『不白翁句集』より

 『不白翁句集』にある川上不白の俳諧のなかから熊野関連の句をご紹介します。

『不白翁句集』春の部より1句

   予十五歳にて、手束弓紀の新宮を出しより十とせを経て帰国

古郷の春やむかしを夕桜

(訳)予が15歳で紀伊の新宮を出てから10年を経て帰国。
 夕桜。昔も咲いていたなあ。故郷の春だ。

『不白翁句集』夏の部より2句

   十年ぶりにて古郷に帰り、熊野の御山を拝す

氏神の杉見違る茂りかな

(訳)10年ぶりに故郷に帰って、熊野の神社を拝する。
氏神の杉が見違えるほどに茂っている。

 

   父母及びおぼぢ・とをつおやの菩提を弔ひまいらせんと、熊野新宮の本廣寺・東都雑司が谷鬼子母神に一石一字法華経を書写して奉納す。

法界のもれぬ光や蓮の露

(訳)父母・祖父母・祖先の菩提を弔い申し上げようと、熊野新宮の本廣寺・東都雑司が谷鬼子母神に一石一字法華経を書写して奉納する。
仏の世界から漏れ出た光か、蓮の露。

 『不白翁句集』秋の部より6句

   或時紀の本宮より和歌山へ至る道にて、山河の出水にとゞめられし。此所は粮てふものも、麥にそら豆入て炊たるを喰て、一日二夜そこの藁家に泊りしが、山中といひ、家居といひ、喰ものといひ、旅は憂事のためしにも、是ほどの苦しさは有まじと思ひし。

捨し身に何としみるぞ秋の風

(訳)あるとき紀伊の本宮から和歌山へ向かう道中で、川の増水のためにとどめられた。
そこは食糧というものは、麦にそら豆を入れて炊いたもので、それを食い、一泊二日、そこの藁葺きの家に泊まったが、山中の様子といい、家の様子といい、食べ物といい、旅はつらいことだというが、これほどの苦しさは他にあるまいと思った。
身を捨てたとはいっても秋の風は身にしみることだ。

 

   新宮に、弁慶の産る楠とて、十抱にもあまりゐる大木有しが、古木なればとて空穂と成しに、弱法師どものすみかとなし、火をあやまつて今は其焦根ばかりぞ残ける。

ふんぞって生まれた根あり楠の秋

(訳)新宮に、弁慶が産まれた楠といって、10人抱え以上もある大木があったが、古木なので、根元が空洞になっていて、乞食坊主が住処として、火を誤って付けて今はその焦げた根ばかりが残っている。
ふんぞって弁慶が生まれたという楠の根がある、秋。

 

   今はむかし、和歌山を出て高野山に詣。古園、熊野に赴きけるころ、はてなし越にかゝりしが、此山は人の行かふ事稀々にして、たゞ杣山人のみ至る所にこそあれ。半ぷくより上は雲霧常に有て、禽獣すら棲かとせず。おりしも秋なりしかば、一しほ霧深うして、昼頃までは咫尺もわかず。連たる僕のわづか一二間隔る顔もみわけざるばかりに、たゞ呼かはしつゝ声を力に行先覚束なく侍るに、又虻といふ虫の多くむらがりて笠のうちに入、目鼻もわかずとゞまりければ、薄を折て打ちはらひ打ちはらひしていく。

霧深き浮世の外も憂世哉

(訳)今となっては昔のことだが、和歌山を出て高野山に詣り、それから故郷の熊野に赴いたときのこと。
果無越え
にかかったが、この山は人が行き交うことも稀で、ただ木こりだけが行く所である。
中腹より上は雲や霧がいつもあって禽獣すら住処としない。
折しも秋であったので、ひときわ霧が深く、昼頃まで数十cm先もわからない。
連れの顔も2~4m隔てると見分けられないほどで、ただ呼び交しながら声を頼りに歩き、先行きが不安だったが、そのうえ虻という虫がたくさん群がって笠のうちに入り、目鼻も関係なく止まるので、ススキを折って打ち払いながら歩いて行った。
この世は浮世というが、霧が深くこの世とも思われぬここも憂き世なのだなあ。

 

   まことに王安石が、一鳥不啼山更幽なりといへりしも、かゝる所にや侍けんとおもはる。かくしつゝ行程に、此山中に山なまこといふて、大なるでゞむしの一二尺ばかりも有が、うねりうねり、岩はな・樹々の木ずゑ・道のほとりに有て、是にとりつかれば、いかならんうめきをやみんと、いとおそろしくぞありし。

立よれば大樹の露や山なまこ

(訳)まことに王安石が「鳥は一声も鳴かず、山はますます静かである」といったのも、このような所であろうかと思われる。このようにしながら行くと、この山中に山なまこといって大きなででむしの1~2尺ばかりもあるのが、うねうねと岩の先や木々の梢、道のほとりにいて、これに取りつかれたなら、どんな憂き目を見るだろうかと、とても恐ろしく思った。
立ち寄った大樹には露ばかりでなく、山なまこもあった。

 

   扨たどりたどり行に、水ひとつのむべき所もなく、かろうじて尾にいたれば、頂上に家ひとつ有。居なしいやしからず、よしある家作なり。かゝる所にも人は住けりと、ふしぎにこそおもはるれ。是は国君の仰事うけ玉はる猟師にして、大小の熊皮のいまだ血に染たるを軒に釣て、ものものしきさまなり。則立よりて湯水などもらひ、息つぎしつゝ、あるじを問にしかじかのよしをいふ。さて熊膽所望しければ、いついつ調へられし事ありやと問に、いかでか此山路しかる事あらんやといへば、さあらばとて掛目五分呉たり。是は少し也、価はいかほども出すべしといへば、いやいや此品多く売まいらせ難し。病に用ひて利あらば其節はいか程もまいらすべし、是我宿の法なりとて、いかやう乞ても五分の外はうらで、我姓名聞て書留たり。是は後に乞の證なりとぞ。斯る山中我と渠ばかりにて、誰人のしるべきならねば、いか程も当座の利にかへてんものを、まめやかなる心ざし社、げにめでたくゆかしくて

雲霧に曇らぬ月の心かな

(訳)さて、たどりたどり行くと、水を飲める所のひとつもなく、かろうじて尾根に来ると、頂上に家が1軒あった。
このような所にも人は住んでいるのだと不思議に思われた。
訪ねてみると、国の領主の命令を受けた猟師で、大小の熊皮のいまだ血に染まったのを軒に釣って、物々しい様子である。
立ち寄って湯水などをもらい、息継ぎしながら、主に問うと、領主の命を受けた猟師であることをいう。
さて熊の肝が欲しかったので、「いつ用意ができるだろうか」と問うと、「どうしてこんな山路に再び来ることがあろうか」と言って、「ならば」と言って五分ほどくれた。
「これは少ない、お金はどんなでも出すから」と言うと、「いやいやこの品は多く売ることは難しい。病いに用いて効果があればその節にはどんなにでもお売りしよう。これが我が宿の作法である」と言って、どんなに乞うても五分以上は売らずに私の姓名を書き留めた。
これは後に乞うた証明となるとのこと。
このような山中、私と彼だけで、誰も知りようがないので、どんなに当座の利益を得ることができるのに、正直な志であることだ。その志がまことに素晴らしくて、
雲や霧に閉ざされても曇らない月のように正直な心であることだ。

 

   其家をはなるれば竜岫を出る。黒雲は莫々として前後に覆ひ風穴に遮る。白雲は片々として左右にはしる。此雲を踏で下れば、とつが村といふへ出たり。いはゆる是十津川にして、ますら男のたけだけしく、家居も■(くさかんむりに魏)々しくして、鎗・長刀・弓・矢飾り、鏃きらきら磨たてゝ、ふりにし建武の御名残も今さらのやうに思ひ出らる。

緋おどしの御味方おほき紅葉哉

(訳)その家を離れて山の頂に出る。黒い雲はとりとめなく前後を覆い、風は穴から出て吹き渡る。
白い雲はちぎれちぎれ左右に走る。
この雲を踏んで下ると、とつが村という所へ出た。
いわゆる十津川で、男は猛々しくて、家も高く大きな造りで、槍・長刀・弓・矢飾り、鏃(やじり)もきらきら磨き立てて、建武の頃に活躍した名残りも今更のように思い出される。
紅葉が、たくさんの、緋おどし(赤い糸で綴った鎧)を身につけた御味方のようだ。

孤峰不白

 不白の名は京都修行時代の禅師、玉林院の大竜宗丈和尚から授かった「孤峰不白」の号によります。
 この号は「雪覆千山為甚麼孤峰不白(雪は千山を覆う、何としてか孤峰不白なる)」という禅語から来ています。

 周囲の山々は雪に覆われている。その中にたったひとつだけ雪に覆われていない白くない山がある。 たったひとつの白くない峰。それが「孤峰不白」。

川上不白の言葉”守・破・離”

* 守ハマモル、破ハヤブル、 離ハはなると申候。弟子ニ教ルハ此守と申所計也。弟子守ヲ習盡し能成候へバ自然と自身よりヤブル。これ上手の段なり、さて、守るにても片輪、破るにても片輪、この二つを離れて名人なり、前の二つを合して離れてしかも二つを守ること也。 --『不白筆記』(1794年)

* 守は下手、破は上手、離は名人。 --『茶話集』

(てつ)

2008.12.21 UP
2009.1.4 更新
2019.11.16 更新

参考文献